十年前、それはひどく騒々しい目覚めだったのを覚えている。横たわる俺を四つの人影が囲み、心配そうに俺の顔を眺めていた。緩やかに景色を映し出す俺の目が真っ先に捉えたのは、まだあどけない彼女の姿だった。


零、幼馴染の少女


曇家に来て三日、まだ傷は完全には癒えていないため、安静を強いられている。目覚めた俺にあれやこれやと質問を投げかける長男と次男、怪我のことなどお構いなしに遊んでくれとやってくるまだ幼い三男、そして曇家の人間ではないにも関わらず、なぜか熱心に俺の世話を焼くのが、曇神社を降りてすぐのところに住んでいるらしい、この三兄弟の幼馴染、渓。

小柄なせいか随分年下に見えるが、この四人の中では姉のような立場らしく、随分弟たちから慕われている。黒く長い髪、眉にかかる程度の前髪、白い肌、細い手首、大きな目。愛らしいという表現がよく似合うこの渓という娘は、いつもよく笑い、時にはやんちゃな三男を叱り、心配そうに眉を下げながら俺の巻木綿を変える。

甲斐甲斐しく世話を焼く割には、俺に対して余計に話しかけることもせず、夕方が来れば必ず神社を降りて家に帰り、朝になって俺が目覚める頃には必ず俺の傍にいて、たった一言「おはよう」と言って笑う。

ずっと変な娘だと思っていた。話してくる内容と言えば、いつも決まって傷の具合や体の調子、腹は減っているかいないか、喉の渇きはどうか、それだけだ。俺が名前も素性も明かさないだけでなく、一切そういったことにも答えないと分かっていて、わざわざ聞いてくる。曇天三兄弟以上に、思考の読めない娘だという印象しか、俺はこのとき持っていなかった。


そうして曇家に来て七日目の朝。目覚めれば相変わらずそこに渓がいる。俺が目覚めたのに気付くと、いつもと変わらない笑顔で言った。

「おはよう」
「…」
「具合はどう?」

のろのろと体を起こしてそこにいた渓を見ると、渓は頷いた。

「あ、ちょっと待っててね」
「…?」

パタパタと小柄な体が去っていく。しばらくして戻ってきた渓が持ってきたのは、温めの茶だった。

「はい!」
「…」
「喉かわいた、って顔してたから!」

笑顔で茶を手渡され、随分驚いたのを覚えている。一言も言葉を交わしたことなどなかったのに、寝起きの俺の顔を見ただけで俺の願望をあっさりを当てて見せたのだ。動揺しながらも手渡された茶を受け取って、飲み干す。冬でも体が冷えない程度の、飲みやすいぬるさだった。

空になった湯飲みを返すと、渓はにっこりと笑って湯飲みを戻すためにまた去って行く。あぁ寒いな、そんなことを思いながら冬の乾いた部屋の中、体を起こした状態で呆然と去っていった小さな背中を見送ると、今度は湯気の立った茶を片手に戻ってきた。

「はい、どうぞ」
「…」
「体、冷えちゃうから。熱いから気をつけて飲んでね」

次に手渡されたのは熱い茶で、なぜこんなにも思っていたことが簡単に知られているのかもよくわからないまま、湯気の立つ湯飲みを受け取った。心眼でも使えるのではなかろうか、なんてことを華奢な少女を目の前にして思いながら、ゆっくりと湯飲みに口をつける。少しずつ体に染み渡っていくそれは、喉を潤すのとはまた違う安心感があった。

安心感。
こんなものを感じるなんて馬鹿げているな、なんて思いながらゆっくりと茶をすすっていると、また渓が口を開いた。

「朝ご飯出来てるよ。動けそうならみんなのところで食べる?」
「…」
「分かった、持って来るね!」
「!」

わいわいがやがやと騒がしいあの食卓に顔を出すのは面倒だ、と思った途端に、渓は笑ってそう言った。驚く俺など置き去りで、さっさと立ち上がって部屋を出て行こうとする渓の背中に向かって、自然と声は漏れていた。

「なん…」
「!!!」

ぐるりと勢いよく俺を振り返った渓は、ただでさえ大きなその目をより一層丸くして俺を見つめた。見つめたかと思うと、今度は俺のすぐそばまで駆け寄って表情をほころばせている。顔の距離が近すぎるせいで、渓の黒い瞳には、もはや俺しか写っていない。

「い、今…喋った!?」
「…」
「喋ったよね!?」

輝くような瞳というのは、まさにこのことを言うのだろう、嬉々として俺を見つめるその瞳に、曇りなどない。こんな輝きを放つ視線を向けられたことなど今まで一度もなくて、俺は困惑と動揺を隠せない。

「てっ、天火に教えてあげなくちゃ!」
「!」

それは面倒くさいことになると瞬時に悟った俺は、今にも飛び出してしまいそうな渓の細い腕を掴んだ。掴まれたことに驚いた渓が俺を見るのと、想像よりもずっと華奢で細い手首に驚いた俺が渓を見るのは、ほぼ同時だった。そのままの状態で、しばしの無言。沈黙が流れて、遠くで聞こえる三兄弟の騒がしい声だけが妙に鮮明に聞こえた。

「……まだ、天火たちには、秘密?」
「…」

なんとも言えないでいる俺をまじまじと見つめて一呼吸置くと、ちょこんと綺麗に座り直した。所作や些細な行動が、まるでよく出来た人形のようなで、つい目の前の少女に見とれてしまう。薄く色づく桃色の頬が、少し照れたようにその色を深める。

「…じゃあ、天火たちには秘密にするから、渓、今日はここでご飯食べてもいい?」
「は…?」
「あなたと一緒にご飯、食べてもいい?」

遠慮がちにそう言うと、渓は恥ずかしそうに小首をかしげた。こんな表情を見たのはもちろんこれが初めてで、きっと俺は戸惑っていたと思う。俺の表情をしばらく伺っていた渓だったが、表情が読めなかったのであろう、少しだけ寂しそうに笑った。

どうやら一緒に食事をするというのは諦めたようで、曇天三兄弟と食べてくると告げると、のんびりと立ち上がった。そのまま振り返らずに去っていこうとする背中から妙に残念な空気が漂っていて、俺は咄嗟に彼女の細い腕を再び掴んでいた。不思議そうに振り返った渓は驚く様子もなく「ちゃんとあなたのご飯持ってくるよー」とへらへら笑っている。確かにそれも大事なことだが、こうして腕を掴んだのはそういうことではなくて、自分でもなぜこう答えたのか、このときの俺には理解できなかった。

「…いい」
「ん?」
「ここで、食べていい」

口から出た言葉はそれだけで、渓の細い手首を離すことも出来ないまま、俺は視線を彼女から逸らしたまま固まってしまった。返事もなく動きもしない渓を不審に思ってしぶしぶ視線を上げると、呆然と俺を見たままピクリとも動かなくなっていた。

しかし俺と目線が合った途端、みるみるうちにその白く愛らしい顔に笑顔が広がっていく。そして先ほどと同じように俺の傍に座り込んで顔を近づけると、眩しすぎるくらいに綺麗な瞳に俺の姿を映し出す。

「ほ、ほんと!?」
「…」
「ほんとに渓、ここで食べていい!?」

どうしてこんなに嬉しそうなのかさっぱり分からない。

「…早くしないと気が変わ「すぐに持ってくるね!待っててね!」

渓は慌ててそれだけ告げると、バタバタとせわしなく部屋を飛び出した。俺はあっという間に見えなくなってしまった背中をしばらく見つめて、誰にも聞こえない小さな溜め息を一つ吐いた。どうしてこんなことを言ってしまったのだろうと、渓がいなくなってから思う。しかしなぜか、不思議と後悔はしていなかった。

嬉しそうに二人分の朝食を持って戻ってきた渓は、いつも通り、特に何かを話すわけでもなくにこにこと笑いながら食事を進めた。利用するためだけの赤の他人と食事なんて、と食べる前までは思っていたくせに、渓と二人の居心地の良さに少しだけ戸惑う。確認するように少しだけ渓を覗き見れば、どうやら彼女も俺を見ていたようで、目が合うとにっこりと笑った。

慣れない居心地の良さと、心臓をくすぶるような初めての温もりに気づくのは、それから数年後のことになるのだった。











「白子?どうしたの?」
「ん?」
「雨なのにぼーっと空なんて眺めちゃって」
「あぁ、掃除も終わって暇してただけだよ」
「ふうん」

雨だから特にやることもないと昼寝を始めた三兄弟の、少しだけ騒々しいいびきと、そのいびきにうなされる様な寝苦しそうな寝息が僅かに響く神社の中。掃除も終えて特にやることもないまま、茶菓子を傍らにぼんやりと雨の止まない空を見上げていたら、脳裏によぎったのはなぜか十年前のことだった。

黒く長い髪を靡かせた美しい娘が俺の隣りに腰掛けた。髪を半分だけ団子にした髪形には、母の形見の赤い丸簪がそっと刺されている。雨で湿気を含んだ前髪から覗く六年前の額の傷は随分薄くなったが、それでもまだはっきりと分かるくらいに痕が残っていて痛々しい。その前髪をやんわりと梳いて前髪で傷を隠してやると、娘は大きな黒い瞳で俺を射抜いた。

「前髪、変?」
「湿気てたからね、もう大丈夫」
「ありがとう」

眩しすぎるこの笑顔は、十年前から何一つ変わらない。変わったのは、美しく育った彼女と、俺の心だ。

いや、俺の心は、本当はあの時から何も変わっていないのだろう。変われないまま、変わらなければいけないと思いながら、十年も流されてきた。

「ねぇ白子」
「ん?」
「この葛餅、ちょっと食べていい?」

小首をかしげて俺の顔をのぞき込むようにして伺う仕草も、十年前と同じだ。俺は笑って葛餅を差し出す。

「…ちょっとじゃなくて全部だろ?」
「あらお見通し…ダメ?」
「…いいよ」
「やった!」
「相変わらず渓は葛餅が好きだな」
「白子が作った葛餅には目がないの」

渓。
十年前、まだ幼かった小さな少女も、とうとう二十歳を迎えた。まだ少し幼さが残る顔立ちと大人びた雰囲気が混ざり合って、時々苦しいくらいに儚い。決して届かないこの感情も、掴めない手のひらも、今更諦めきれるものではなくて、代わりに蓋をして鍵をかける。

「ん〜おいしい!やっぱり白子の葛餅が一番!」
「そう?ありがとう」
「今度私だけに作ってもらおーっと」
「…天火たちには秘密で?」
「もちろん」
「怒るよきっと」
「バレなきゃいいんです」

悪戯っぽくそう言って笑う渓に、結局俺は甘い。本人はそんな俺の気持ちになんて微塵も気づいてはいないけれど。

「…仕方ないな」
「作ってくれる!?」
「こっそりね」
「やった!さすが白子!」

嬉しそうにそう言って笑う。
その笑顔は、いつか失われるのだろうか。

雨が降る曇天の下、隣りには太陽がいて、なんだか妙な気分だ。渓は葛餅をぺろりと平らげると、ふいに雨の止まない空を見上げた。俺も同じ景色を眺めようと、視線を上げる。

心地のいい沈黙が響く中、穏やかな雨の音に包まれながら、俺たちは二人、三兄弟が目覚めるまで静かに空を眺めた。


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