気持ちはいつもすれ違い、正しく相手を愛せないまま、自分の心に返ってくる。それが苦しくて、蓋をして鍵をかけた。決して彼女が触れてしまわぬように。


七、恋に揺れる二人


あれから数日がたった。
いつも通り、渓は曇家の掃除を終えてまったりと縁側で過ごしていた。目の前には必死に剣を振る空丸がいる。

渓はぼんやりとその様子を眺めながら、先日泊まった夜のことを思い出していた。白子は泣き疲れてしまった渓を部屋に連れて布団に戻し、二人とも何事もなかったかのようにいつも通りの朝を迎えたので、天火が随分とつまらなさそうにしていた。どうも天火は二人を引っ付けたいらしいが、渓自身が白子は自分のことなど何とも思っているわけがないと思い込んでいるんので、なかなか進展しない。天火はそのことについて納得が出来ないということをいつも当人たちに伝えてくるわけだが、そんなことは渓が一番歯がゆく思っているのだ。

渓も十分大人になり、大人の男女間であれば肉体的な関係が生まれることも承知だ。気のある男女が同じ部屋で一夜を共にするとなれば、そういう可能性も否定は出来ない。しかし白子はそんな素振りを見せることなく、翌朝にはいつものように笑っていた。

妹なんだよね。

そう理解しているのに、諦めきれないまま早十年。心が痛いと軋みだすことには、すっかり慣れてしまっていた。いずれ白子に愛する人ができ、この神社を離れて暮らすことになってもつらくならないように、何も言わないのが一番いい。それまではこうして、その日がくるまで傍にいて笑っていられるのだから。幸せの形など人それぞれだ。私は大丈夫、幸せだ。

白子への想いが深まって、時々泣きたくなるほど切なく胸は鳴り響くのだが、渓はそうやって思い込むことで、自分の気持ちをうまく流していた。ぼんやりとした眼差しで思うことは、いつもそんなことばかりだった。


渓が感傷に浸っているとき、突然空丸の足がガクッと崩れ落ちる。ハッとして立ち上がると、倒れてしまった空丸に駆け寄った。

「空丸!大丈夫?」
「はぁ、はぁ…大丈夫、です…」
「すごい汗…無理しすぎじゃない?少し休んだほうがいいよ」
「渓の云うとおりだよ空丸」

渓が声の方を振り返ると、縁側にお茶を準備した白子が座っていた。先日負った傷はすっかり良くなり、ほんの少し痕が残る程度にまで回復していた。渓は忍の生命力は恐ろしいなあ、と場違いなことを思いながら、湯飲みに茶を入れる白子を見つめている。

「毎日一人で無闇に剣振ってても限界があるだろ。お茶、此処置いておくから休憩しなよ」
「まだ、大丈夫です。渓さんごめん、危ないからちょっと離れてて」

空丸は渓の目も見ずそう言うと、再び剣を振り始めた。ここまで言ってもまったく聞かないのだから、もう何を言っても無駄なのだろう。渓は不安げに空丸を見つめたまま、静かに白子の元へと戻っていく。白子と目が合うと、困ったように眉を下げて彼は笑った。白子は立ち上がって、寝転がる天火の元に茶を置きながら口を開く。

「この間からあの調子だけど、少し休むようにお前からも何か声掛けてやったら……」

そう言いながら天火に茶を渡した白子は、天火の顔を見て一瞬固まった。ただ寝転んでいるだけかと思いきや、いつになくマヌケな、しかし真剣に悩んでいるようにも見える顔をしながら転がっていたのだ。

「…天火?」
「宙太郎がおかしい」

怪訝そうに声をかける白子に食って掛かるように、天火はたった一言、唐突にそう言った。

「いつもだろ」
「いやいやそうじゃなくて、最近小学校行きだしたろ!?そこからだ!様子がおかしい!行く前にソワソワしてんだ」
「はは、恋でもしてるんじゃないか?」

湯飲みに自分用の茶を注ぎながら白子が冗談混じりに答えると、縁側に座り込んだまま心配そうに空丸を見つめていた渓が、ピクリと小さく反応した。そんな渓の様子に気付くこともなく、天火は茶菓子をかじりながら騒々しく声を上げる。

「恋ッ!?恋だとッ!!?このお兄様を差し置いてかずるいっ!!!」

背中でギャーギャーと喚く天火に対し、うるさいなあと心の中で呟きながら、渓はふうっと軽い溜め息をついた。私たちを引っ付けようとするくせによく言うわ、と苦笑いしながら、曇天の空を見上げる。相変わらず雲に覆われた空は、本心を覆い隠す自分自身の心模様を表しているようにも見えた。好きだと言えたら、どんなに楽なのだろう。そして想いを受け入れてもらえたら、どれほど喜ばしいのだろう。

しかし跳ね除けられたときのことを思うと、勇気が出なかった。気まずくなって、この神社に出入りすることも躊躇われるだろうし、そうなれば誰も居ないあの家で、毎日一人寂しく過ごすことになるのであろうことは、簡単に予測がついた。結局自分はただの寂しがりやの弱虫だ。渓はそう感じながら、寂しそうに空を見上げていた。


するとばたばたと背後が騒がしくなったことに気付いて、渓は振り向く。八つ当たりたいと顔を歪める天火の前に、運悪く空丸がやってきてしまった。

「兄貴!手合わせしてくれ!!」
「あ、空丸あぶな…」
「ありがとうございますっ!!」

渓の静止もむなしく、空丸はあっさりと天火に殴り飛ばされて気絶した。やりすぎだろうと思いながら渓が空丸の元に近付こうとするが、それよりも先に天火が空丸の首根っこを掴んで、爽やかな笑顔で言った。

「つー訳で、宙太郎の初恋の邪魔――…いや、見守りに行って来るわ、空丸と。留守番頼んだぜ」

なんて兄だ、と白子と渓が思っていると、出て行こうとした天火が二人を振り返り、ニヤリといつものように笑った。

「お前らも二人っきりだし、仲良くな」

それだけ告げると、天火は白子の変装道具を借りると言ってそそくさと出て行った。渓はポカンとその背中を見送ると、しばらくしてからようやく溜め息を零した。白子もやれやれと苦笑すると、自分と渓の茶を持って縁側に移動する。

「おいで渓、お茶あるよ」
「あ、うん。もらう。お茶菓子もある?」
「今日はおはぎ」
「やった!白子のおはぎ久しぶり」

甘味につられて縁側に座り込むと、一人分座れるくらいの距離を開けて、隣りに白子が腰掛けた。この距離が渓にとってはもどかしい。そんな気持ちを誤魔化すように、いただきまーすと嬉しそうに言っておはぎを口に放り込む。昔から変わらない、程よい甘みが口いっぱいに広がった。もぐもぐと口を動かしながら、渓は再び曇り空を眺める。太陽も星も月も覆い隠す雲は、今日も厚く広い。

「…………恋、か」

ごくんとおはぎを飲み下した渓は、無意識のうちにそう呟いていた。気付いた時にはすでに遅く、隣りに腰掛ける白子には確かに聞こえていたようで、白子は静かに問いかける。

「恋が、どうかした?」
「…んー、どうだろう」

一瞬だけ白子の微笑む顔を見て、渓は困ったように笑ってから、また薄暗い空を仰ぐ。

「…恋でもしてるのか?」
「んー…」

白子の問いに、渓は空を見上げたまま少し悩んだ素振りを見せると、白子を見ることなくふっと笑って、どこか焦がれるような、それでいて諦めたような声で言った。

「してるよ、ずっと」

白子はそんな渓の横顔に見とれた。すっと目を細めて、空を覆う雲よりも遠くを見つめるその表情は、ほんの少し影を帯びていて、儚くも美しい。今にも込み上げてしまいそうな感情をなんとか押さえ込んで、白子は平常を装いながら言葉を吐き出す。

「へぇ…誰に?」

聞けば自分を苦しめるだけだと分かっていて、白子はその言葉を口にしていた。今この場で、これ以外に適当な言葉の返し方など思いつかなかったからだ。手を伸ばせば簡単に触れることも、抱きしめることも出来るのに、決して求めてはいけない苦しさが胸を突く。

彼女はこちら側の人間ではない、そう言い聞かせれば、なんとか保って来た感情は爆発せずに済む。白子は誤魔化すように空を見上げて、湯飲みに口をつけた。

ふいに視線を感じて隣りを見ると、渓が珍しく真顔で白子をじっと見つめていた。しかしそれも一瞬のことで、ふっと儚い表情を作って切なげに笑う。

「秘密」

人差し指を口元に当ててそう言った渓は、なぜだか今にも消えてしまいそうで、白子は伸ばしかけた腕を必死に食い止める。そんなことにも気付かないまま、渓はさっさとおはぎを食べ終えると、何かを吹っ切るかのように元気よく立ち上がり、くるりと白子を振り返って笑った。その顔はすっかりいつも通りで、先ほどまで憂うような表情をしていた人物と同じだとは思えない。

「じゃ、買い物行って来るね。白子は留守番よろしく」

パタパタと駆けて行ってしまおうとする渓の背中に向けて、白子は思わず口を開いていた。

「渓―――」
「うん?」

振り返って笑う渓も、やっぱりいつもと同じで。

「…いや、気を付けて」

白子もそう言って笑った。渓はきょとんとした顔で白子を見つめたまま少しの間固まっていたが、くすくすと笑って心配性だなあと零して去って行く。

その背中が完全に見えなくなった後、白子はうな垂れるように頭を抱え、拳を強く握って目を閉じる。何度か深呼吸してからゆっくりと目を開けると、自分自身を鼻で笑う。求めてはならない、求めない、そう定めた決意があっさりと砕けそうだった。



白子はずっと昔から、渓の気持ちを知っていた。自分に向けられている視線が特別だということも、渓がそれを必死に抑えようとしていることも、今の関係に寂しさを感じていることも、何もかも。そして自分自身が渓に対して抱いている感情が、渓の持つそれと同じだということも、きちんと受け止めて理解している。

本来ならば、渓という存在を求めることも、受け入れることも簡単なはずなのに、悲しいかな、それは決して許されることではない。素直に好きだと一言告げるだけで、お互いの感情を正しく相手に向けられるのに、自分はそれが出来る立場にはいないのだ。

風魔一党、渓を堂々と愛してやれないのは、たったそれだけの理由。

渓は何があってもここで生きるのが一番いい。自分の人生に、彼女を巻き込むわけにはいかない。ましてや自分自身の人生を、渓に捧げることなど出来はしない。それは白子が背負う運命の大きさで、同時に失わなければいけないものの大きさを物語る。

「…渓…」

苦々しく白子の口から吐き出された愛しい名前は、白子の心を苦しめる。何度も諦めようとして、それでも諦め切れなかった。きっと、手を伸ばせば届く場所にいるからだろう。そして結局は、感情を無理やり押し殺して蓋をする。容易なことではなかったが、白子はわざと気持ちを騙して過ごす事しか出来なかった。

いっそ渓が、―――――なら。

何度もそう思ったことがある。しかし、馬鹿げた夢は叶わない。ならばここを離れるその前に、狂ったように愛して、壊してしまえば、彼女は自分を諦めるだろうか。いや、きっとそれ以前に、自分にはそんなことは出来ないのだろう。どうせいつかは傷付けてしまうのに、それでも大切にしてやりたいなんて、矛盾もいいところだ。

もしも渓が自分ではなく一番傍に居た天火を好きになっていれば、渓が毎日ここを訪れなければ、あんなに可憐に美しく成長しなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。

いくらそう思ったところで、現状は変えられない。白子は渓を愛してしまった。事実を認めて受け止めることで、こうやって傍に居られる。



ある程度落ち着いたのだろう、白子は顔を上げて柱にもたれ掛かり、いつも渓が見つめる曇天の空を見上げた。今日も変わり映えのない灰色の雲は、感情を押し殺す自分そのもののように見えた。白子は諦めたように笑うと、口を開きかけて、やめた。そのかわり、心の中で静かに告げる。


好きだよ、渓。


声に出してしまえば終わりだ。無理やり鍵をかけて閉じた蓋はあっさりと開いて、迷うことなく渓を求めてしまうのだろう。

このまま、彼らの傍にいてくれ。

金城白子という一人の人間としてそう願いながら、白子はただただ、流れ行く物悲しい雲を見上げていた。


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