いつもと変わらず始まった日常の中、静かに影と狂気が近付いていることを、このときはまだ、誰一人として知らなかった。


三、嘉神直人


空丸と宙太郎が診療所に向かってからしばらくして、天火も二日酔いの体を引きずるようにして家を出た。二人っきりで神社に残されてしまった白子と渓は、今朝のこともあってか、いつも通りではあるのだが、どことなくきごちなかった。無駄にだだっ広い神社の掃除を終えた後、二人並んで無言のまま、縁側でお茶を飲んでいるとき、何かを思い立ったのか渓が口を開いた。

「そうだ、あとで鎮守の森に入ってもいい?」
「鎮守の森?急にどうした?」
「こないだ上林さんに美味しい野草を教えてもらったの。ここ、私が入り浸ってるせいでなかなか生活大変でしょ?鎮守の森なら安全だし、たくさんありそうだから、ちょっと採って来ようかと思って」
「ここの生活が大変なのは渓のせいじゃないと思うけど。むしろ渓がいて助かってるよ」
「そんなことないよ、一人分食費が増えるだけでも結構な痛手だと思うよ」

渓の両親が亡くなって十五年、親代わりとして渓を育てていた祖父母も、もういない。両親が曇家と仲良くしていたこともあって、幼い頃から曇神社には当たり前のように渓がいた。家族同然のように同じ時間を共有してきたのだから、今更ここに入り浸っていることを申し訳なく思うことはないが、空丸も宙太郎も大きくなってきて食べ盛りだ。それに大人の男が二人もいれば、それだけでも随分食費はかさむ。女で小柄な渓の食費などあってないようなものではあるが、渓なりに気にしてはいるのだろう。

渓はこの曇神社の手伝いをしているだけであって、働いているわけではない。寝泊りこそしていないものの、立場としては白子と何も変わらないのだ。白子は忍ということもあって、神社の見回りや警護、天火からの使いなどもこなせるが、渓が出来ることといえば掃除と炊事くらいのものだ。しかし、実際は空丸と白子がいれば、この神社の家事全般は何も問題ない。わざわざ渓が手伝う必要は本来ないのだ。

そしてつい最近になって、宙太郎が小学校に通い始めた。それだけでもお金はかかる。これを機に渓も半居候生活をやめようかと思ったが、天火達になぜかひどく反対されてしまって、結局流されて今に至る。しかし長年曇家に甘えているため、少しでも役に立ちたい、という気持ちは、いつもどこかにあった。

「だから鎮守の森に入る許可をください白子さん」
「俺はただの居候だからそんな権限ないんだけど」
「えーそこを何とか!」
「天火が帰ってきてから直接聞きなよ」
「今日は天火お休みでしょ?待ってたら日が暮れちゃう」

だからお願い!と両手を合わせて渓は白子に向き合う。そろりと白子を上目遣いで見上げれば、諦めたように白子は笑った。結局この神社の住人達はみな、渓にだけは甘いのだ。当然白子も例外ではない。むしろ、白子が一番甘いのかもしれない。

「なるべく早く帰っておいでよ」
「いいの!?」
「迷子にだけはならないように」
「む、失礼な。もう子どもじゃありません」
「あんまり遅いと怒られるから気をつけて」
「天火に?」
「俺に」
「…それは怖そうだから早めに帰ってくる」

渓はそう言うとぬるくなったお茶を飲み干して立ち上がった。ついでに空いた茶菓子の受け皿なども片して、野草摘みに便利そうなざるを探す。きょろきょろと物置を見渡していると、上の棚にちょうど良さそうなざるが見えたが、渓が必死に手を伸ばしても届かない。空丸が背伸びをして届くくらいの高さなのだから、当然小柄な渓が届くはずもない。きょろきょろと辺りを見渡して台になりそうな物を探すが見当たらなかったので、仕方なく背伸びをして必死に手を伸ばす。

渓が一人で奮闘していると、背後からプッと我慢できずに吐き出したような笑い声が聞こえて、渓はムッとした様子で振り返る。見れば白子が肩を震わせて笑っていた。渓は子どものように頬を膨らますが、恥ずかしさのあまり顔は赤い。

「…りんごみたいになってるよ渓」
「…声震わせながら云わないで」
「可愛い可愛い」
「思ってもないことはもっと云わないで」

顔を赤くしてふんっとそっぽを向いてしまった渓。白子はいまだにくすくすと笑ったまま渓のそばまで歩み寄った。

「どれ取るの?」
「…あのかご」

渓は片手で赤い頬を押さえて、もう片方の手で欲しいかごを指差す。白子はそのかごを取ろうと思ったが、ふと手を止めて渓を見下ろした。

「渓、奥にもう少し深めの良さそうなやつがあるけど、どうする?」
「え、本当?じゃあそれにしようかな…」
「…自分で見てみる?」
「え?……きゃあ!?」

言うが早いか、白子はひょいっと渓の体を持ち上げる。突然のことで体勢を保てなかった渓は、思わず白子の肩に抱きついた。

「なっ、な、なにするの白子!」
「自分で見て決めるのが一番早いだろ」

いつになく楽しげな白子の笑顔を見て、渓はむうっと眉を寄せた。

「…出たな意地悪白子」
「久々だろ」
「どうしてそう突然悪戯っ子になるの」

普段は温厚で優しい白子だが、本当に稀に、こうして渓をからかう白子が現れる。滅多にないことなので、渓もこの白子が出てきた時は対処に困るらしい。渓は肩に抱きついたままで、いつになく顔の距離が近いことにも戸惑っている。白子の紫色の瞳がからかうように真っ直ぐ自分を見つめているため、渓は恥ずかしさから目を合わせられずにいた。

白子もどうして毎回急に渓をからかいたくなるのかは分からなかったが、今日は確実に今朝の件が原因だと断言できた。いつも悔しいくらい渓に翻弄されているのだから、たまにはこうして渓を翻弄してやりたいと思ったのだろう。白子も人の子、ましてや男である。二人きりでいる時にしかこんな大胆なことは出来ないのだから、こういった時に好奇心が煽られるのは仕方がないのだろう。

「渓が可愛かったからかな、ちょこちょこ背伸びして」
「! 馬鹿にした!」
「してないよ。ほらちゃんと見て」

どうやら下ろしてくれる気配はないなと悟った渓は、渋々白子の肩から腕を離すと、体勢を整えて奥を見た。自分の視線では見えなかったかごがたくさん見える。結局白子の言っていたかごが一番良さそうだったので、それを手に取ることにした。渓がかごを掴んだのを確認すると、白子は丁寧に渓を下ろす。下ろされた渓の顔は相変わらず赤く染まっていた。

随分恥ずかしい思いをしたのだろう、渓はかごで顔をさっと隠してしまった。しかし、かごの網目からりんごのようなその頬がちらつく。少々やりすぎたかな、と思った白子だったが、今朝方与えられた衝撃に比べれば可愛いものだろう、と些細な仕返しに満足した。

「行かないの?」

えらく楽しげで試すような口ぶりの白子を、渓はかごの隙間から睨み上げる。凄んだところで大したことはないのだが、それでも睨み上げずにはいられなかった。

「…白子の意地悪」
「たまにはね。渓のことからかう機会も減ったし」
「いっそなくなればいいのに、そんな機会」
「寂しいこと云うなぁ」

白子が肩を竦めたところで、ようやくかごをずらして目元見せた渓と目が合った。随分ふてくされているようだ。

「…行ってくるよーだ」
「はいはい、行ってらっしゃい。気をつけて」
「…なるべく早めに帰る」

白子が怒ると言ったことを気にしているのだろう。顔を赤くしたまま目も合わさずに、かごを持ったまま草履をはいてパタパタと駆けて行ってしまった。そんな可愛い背中を見送りながら、白子は抱きつくように腕を回された自身の肩に触れる。渓の体を抱えた自分の腕よりも、その細い腕で縋るように触れられた肩の方がずっと熱を持っているのだから不思議なものだ。白子は小さく笑いながら、胸の中で広がる些細な幸福感を噛み締めた。



逃げるように神社を後にした渓は、一人鎮守の森で息を整える。抱き上げられたとき、驚くほど近くで白子の端整な顔が自分を見つめていた事を思い出し、なかなか顔の熱が収まらない。白子が時々あんな風に渓の事をからかうようになったのは、渓が物心ついたときからだ。初めてからかわれたのは、もういつだったか覚えてはいなかったが、二人っきりのときに限って渓をからかい、照れているところを見て満足する。変な趣味だ、と心の中で思いつつも、そんな白子さえ愛しくてたまらないのだから困ったものである。

普段は優しく、いつも微笑むように笑う白子だが、渓をからかう時だけは妙に生き生きとしている。それでいて普段よりもずっと男らしさを感じさせるものだから、渓は心臓の音が聞こえてしまうのではないかといつも思っていた。そして意識してしまう。白子も少しは自分を特別に思ってくれているのではないかと。

「……やめよ、恥ずかしい」

自惚れて空回って、幸せな今が変わってしまうのは怖い。白子はただ、妹のような自分をからかって、面白がっているだけなのだと思い込むのが、変わらない日常を幸せに保てる一番の秘訣だと思い、渓は何度か深呼吸をする。赤らむ顔をそっと抑えて、自分の中の淡い想いを押さえ込む。大丈夫、そう言い聞かせれば、少しずつ熱は引いていく。

気持ちを切り替えてゆっくりと歩き出した渓は、野草を摘むためさらに奥へと歩き出した。



 ● ●



渓はかご一杯に摘まれた野草を見て満足そうに頷いた。ヨモギ、オオバコ、イタドリなど、様々な野草がカゴに盛られている。今日は天ぷらでもしようかと思いながら、渓は神社に戻ろうと歩き出す。この時間であれば白子も怒るまい。

森の中をのんびりと歩いていると、突然聞いたこともないような森の悲鳴が耳を劈く。木々の倒れるような音、張り裂けんばかりの鳥の鳴き声。穏やかな鎮守の森がこんなに騒々しいなんて何事かと思うと同時に、僅かながら金属のぶつかり合う音が聞こえた。それと同時に、なぜか傷付いた空丸の姿が頭に浮かんだ。まさか、と背筋がぞっとするのを感じ、渓は慌てて駆け出した。自身が無力なのは分かっていたが、同時に最悪の結末が頭を過ぎる。もしも空丸が、そう考えると、駆け出す以外に他ない。

森に音が反響して分かりづらかったが、音が大きいほう目掛けて足を進める。なんとか広く開けた場所に出ると、そこは木々が無残にも切り倒されており、美しい森の姿は失われていた。そしてそこには見覚えのある姿が横たわっている。空丸だ。診療所で治療して貰ったはずなのに、あちこち傷だらけになっており、その上に見知らぬ男が馬乗りになっていた。

その男は、嘉神直人―――指名手配中の殺人狂だ。

もちろん渓は馬乗りになっている男がそんな人間だとは知らない。この状況に驚くよりも、考えるよりも先に、渓は声を発していた。

「やめて!!」
「…渓さん!?」

慌てて駆け寄ろうとする渓を、空丸は声だけで制止した。

「来るな!!」

しかし空丸がそう言うと同時に、嘉神が渓に向かって何かを投げる。渓は反射的に頭を覆うと、左肩に痛みを感じて思わず尻餅をついた。持っていたかごががさりと音を立てて地面に落ちる。何が起こったのか分からないまま、渓は自分に起こった状況を確認する。左肩からは今までに味わったことのないような痛みと熱が走り、身に纏っていた淡い桃色の着物が赤く染まっていた。熱い、痛い。それだけがぐるぐると脳内を支配する。どんどん広がる赤をなんとか止めなければと、空いた右手で押さえつける。

一体何がどうしてこうなったのか、さっぱり分からない。すると目の前に影が落ちた。混乱している状態でふと視線を上げれば、そこには見知らぬ男が立っていた。氷の様に冷たく、鋭い視線が、真っ直ぐに渓を射抜いた。身の毛がよだつほどむせ返る血の香りに、渓は一切の動きが取れなくなった。すうっと全身から血の気が引いていく。

「危ないのぅお嬢ちゃん」
「…っ」
「いきなり出てくるから怪我するんよ」

飄々とした口調はやんわりとしているのに、なぜか禍々しさで満ちている。渓は声も出せないまま、男を見上げた。その腕に空丸が引きずられているのを見て、渓はハッとする。震える体は上手く動かなかったが、声だけでなんとか男を威嚇する。

「…その子を離して」
「ほぉ」

声はすっかり恐怖で震えていたが、はっきりとしたものだった。渓は睨むように嘉神を見上げたままで、目を逸らさない。普通なら恐怖で悲鳴の一つでも上げるものだが、それより先に手の中の子どもを離せという渓に、嘉神は僅かに興味を示す。

「君、何者?」
「……その子を離してって云ってるの」

嘉神の質問には答えずに、同じ言葉を繰り返す。嘉神は不気味にニヤリと笑うと、座り込む渓の前にしゃがみこんでその顔をじいと見つめた。渓は思わず肩を大きく震わせるが、その目は変わらず真っ直ぐに嘉神を射抜く。

「っ、渓さん逃げて!」

逃げれるものか、と渓は思う。体が震えているだけでなく、見事なまでに腰を抜かしていて、今は立てる余裕すらないのだ。せめて空丸だけでも、と渓は心の中で思いながら、目の前の不気味な男をただひたすら睨みつける。

「お嬢ちゃん、曇天三兄弟の知り合いか?」
「…」
「ほな、オロチの器についても知っとるんかいのぅ?」
「…え?」

オロチの器。
聞きなれない、けれどどこか懐かしい単語に渓が眉を顰めると、嘉神は何も知らないと判断したのか、まぁええわ、と一言零して立ち上がる。それと同時に、渓の脳内に突然単語が浮かび上がった。気付いたときには、それはするりと怯えた唇から零れ出ていた。

「―――蛇の信者」

それは渓自身全く覚えのない単語で、それがなぜ今ふいに零れ落ちたかは分からない。その言葉は空丸には届かなかったようだが、立ち上がったばかりの嘉神には聞こえていたようで、深い闇を宿した目で驚いたように渓を見下ろすと、思わぬ収穫だと言わんばかりにニヤリと笑った。嘉神は軽々と渓を肩に担ぎ上げる。突然体が宙に浮いて、渓はようやく飛びかけていた意識を取り戻す。

「っ、やだ…!」
「お嬢ちゃんはいろいろ知っとるんじゃろ。ちょうどええ、一緒に来てもらおうかねぇ」
「知らない!その子を離してよ!!」

暴れようともがくものの、左肩はより一層痛みを増している上に、恐怖で思うように体が動かない。その上腰は抜けたままで下半身はまるで役に立たないのだから、この男を蹴りつけてその隙に空丸だけでも、というわけにもいかない。結局自分はこんなにも非力なのか、と渓は思う。あの時も、目の前に大切な人がいたのに、何も出来なかった。状況はまるで違うというのに、胸と額の古傷がズキズキと痛み出す。息をするのも苦しくなって、大きな瞳から一筋、すうっと涙が伝った。

どうしよう、どうすればいい。
ただでさえ混乱している頭を必死に動かすが、結局答えが出ないまま、代わりにポロポロと涙が溢れるばかりだ。


―――お前のせいだ


低く唸るような、それでいて悲しみと恐怖に満ちた声が脳内に響く。今この場所にいる恐怖と、空丸を救えない恐怖が同時に湧き上がったせいで、あの日の恐怖まで鮮明に蘇ってきてしまった。

たすけて。

何度も叫んだ声は、あの日誰にも届かなかった。たすけて、お願い、誰か、そう思ったときには、渓は声を上げていた。


「たすけて白子…!!」


震えたままの声がそう叫んだ瞬間、風を切る音と共に嘉神が金属を弾く音が空に響く。そして渓が気付いたときには、自分の体は嘉神から離れ、あっという間に見知った温もりに包まれていた。混乱していた頭では何一つ今の状況を把握出来ないが、ただ一つ分かるのは、来てくれた、という事実だけだ。

「手元のその子大事なもんでね、返してもらおうか」
「…しら、す」
「風魔か」

渓が見上げた視線の先には、今までに見たことがないような冷めた目で嘉神を見つめる、白子の顔があった。


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