テキスト | ナノ

 黒子が泣いている。
 空色の大きな瞳から涙の粒が、ぽつりぽつりと止めどなく落ちてくる。緑間は腕を組んで、横からそれを、黙って眺める。
 同棲を始めて何度、黒子の涙を流す姿を見たことだろう。泣いているのを見ても、いつも何もしてやれない。どころか自分の持てる譲歩とプライドのぎりぎりのラインで、「お前がつらいのなら代わってやるのだよ」と緑間が言っても、黒子は「キミに任せるほうが心配です。ボクは大丈夫ですから」と頑なに譲ろうとしない。まったく頑固なものだ。そんなだから、緑間は奥歯を噛んで、黒子が泣くのをただ見ているしかない。
 黒子の涙はまだ止まらない。いままで彼の頬を流れ落ちたしずくが、どんどん手元を濡らしていく。もう、緑間は見ていられなくて、目を眇め、固い口をとうとうひらいた。
 キッチンで包丁を握り、玉ねぎのみじん切りにひとり、格闘する黒子へ向けて。
「……おい、黒子」
「何ですか、緑間くん」
 言葉の端々で黒子がぐすぐす鼻をすする。答える間も手を止めず、一生懸命だ。
「玉ねぎの匂いに刺激されて泣くくらいつらいならさっさとオレに代われといつも言っているだろう」
「嫌ですよ。キミには、ジャガイモの皮むきを頼んで、買ってきたジャガイモを全滅させた前科がありますから」
「むっ、それは……」
 たしかにそんなこともあった。ことバスケにおいてなら、緑間は腕の動かし方から指先の触り具合まで自分の思い通り完璧にコントロールすることができたが、その他のこと言えば、不器用極まりない。包丁の扱いなど、いつまで経っても慣れやしない。
「それに言ったでしょう? 今日、誕生日の人はおとなしく待っていてくださいって」
 黒子はようやく玉ねぎを刻む手を休めて、緑間のほうを見た。ぱっちりひらいた瞳は真っ赤で、まばたきすれば、いまだ涙がぽろぽろ頬を伝い落ちる。
 黒子がそれを手の甲で男らしくぐいっとぬぐう。眼の下に赤い痕が残るくらい自分を顧みずにするから、いよいよ緑間は黒子の腕を取ってさえぎった。
「もうやめておけ、腫れがひどくなるのだよ」
 ふたりの顔がぐっと近づく。黒子の顔は、もう、ずっと泣いているせいで、涙の伝う線が可哀想なくらいくっきりと浮かんでいる。ふだん見ることないその泣き顔が、緑間には、宝石のように貴重で魅力的なものに思えた。
 緑間は腕を拘束したまま、黒子の湿った唇に短くキスをした。
「……ついでみたいに何してるんですか、キミは」
 黒子が胡乱気な表情でじっとりと見あげてくる。頭で考えるよりも先につい身体が動いた、自分でも思わない行為だったから緑間は一瞬言葉に詰まる。腕をぱっと離し、顔をそむけて、慌てて言い繕う。
「たっ、誕生日なのだからお前の唇をもらったまでなのだよ」
 なんと苦しい言い訳か。今度は緑間が頬を赤くする番だった。口をむっと閉ざして、もう何も言うまいと思った。三拍くらいしたころ、横を向いた緑間の耳に、くすっと笑う声が届いた。笑われた、そのことに、可笑しかったら馬鹿だと言ってもっと笑えばいい、そう悪態ついてやろうと、勢いよく顔を振り向かせる。けれど、緑間が受けたのは黒子からのキスだった。
「こんなものでよければあとで美味しいご飯といっしょにいくらでもあげますよ」
 呆然と立ち尽くす緑間に微笑み、黒子が再び玉ねぎと対する。刻み始めれば、たちまち空色の大きな瞳から涙の粒が、ぽつりぽつりとまた落ちてくる。
 緑間は呆けた視界で黒子の泣く横顔をぼんやり眺めて、またキスしたくなった。


2016.07.07(願いをなみだに籠めたら)