テキスト | ナノ

前話のつづき


 今ちょうど、午前二時を回った。
 黒子はソファに腰かけ読んでいた小説から顔をあげて、ちいさく息をつく。音のない部屋に黒子の、ふう、と息を吹く音だけが目立つ。
 さっきまでこの部屋には忙しない音があちこちで鳴っていた。それは、緑間がキッチンの椅子に座っては立ち上がって部屋中パタパタとスリッパを引きずって歩いたり、もう何度、目を通したか知れない今日(日付変わって昨日)の朝刊を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返したりする音だった。
 ふだん賑やかしいより静寂なほうを好む彼にしては、めずらしく喧しいことだった。落ち着かないのだ。そんな緑間の落ち着かなさの原因を、黒子はきちんと知っていた。
 黒子は、二時間くらいかけて二ページほどしか読めなかった小説をゆっくり閉じて、今は黒子の隣に大人しく座る緑間をちらっと見た。
 その時、ふたりいるすぐ傍のテーブルの上で、それまでじっと我慢して石のようにてんで動かなかった緑間の携帯電話が、ぶるぶるとけたたましい勢いで震えた。
 黒子は一瞬、自分の心臓が止まりかける心地がした。しかし緑間はそんなことにも臆せず、引っ手繰るように電話を取って立ちあがる。そして黒子に背中を向けて、秘密の話でもするように部屋のすみへ行き、ええ、とか、それで、とか神妙な声で話す。
「生まれましたか」
 いっとう力の入った言葉が部屋のなかを駆けた。緑間の口から思いがけず落っこちてきたそれに、黒子はさっきより大きく深く息を、ふううとついた。
 黒子が背もたれに完全に身体を預けてしまい、胸の震えるのを右手で押さえていると、緑間が「では近いうちに、また」と言ったっきり電話を切った。
 緑間が再びソファのほうへ戻ってくる。黒子は何も言わず、彼が来るのを待った。さっき漏れ聞いたことではあるけれど、ちゃんと緑間の口から黒子に伝えてくれるのを聞きたかった。
「妹に赤ん坊が生まれたそうだ。男児だと母が言っていたのだよ」
「そうですか」
 心が膨れて、それだけ言うのが黒子の精いっぱいだった。けれどしばらくすると、言いたいことがあとからあとから湧いてくる。黒子は遂にひとつだけ尋ねた。
「……お見舞いには?」
 緑間が一拍おいて、言う。
「ああ、もちろん行く」
 いつものしかめっ面はどこへ隠れてしまったのだか、小さく笑みすら浮かべるから、見ている黒子も心躍る。
「それじゃあ何かお祝いを用意しないといけませんね。いっしょにボクのも緑間くんから渡しておいてもらえますか? ……ボクからの贈り物なんて受け取っていただけないかもしれませんけど」
 黒子がしょんぼり言うと、緑間は、ふん、といつもの調子で鼻を鳴らした。いつの間にかしかめっ面も戻ってきている。
「何を言っているのだよ、見舞いにはお前も行くんだぞ」
「えっ、でもそれは」
「お前を連れて来いと母が電話の終わりに口酸っぱく言っていた。それに以前からまたお前を家に呼べと妹からもうるさく言われていて、だな」
 黒子は間抜けのようにぽかんと口を半分開けて、緑間の言うことを聞いた。
「黒子、いっしょに来い。お前を連れて行かないと妹からも母からも、それから父からも、きっとオレが責められるのだよ」
 自分だけ責められるのは不公平だろうとむくれる緑間に、黒子は考えるまでもなく降参した。


2016.06.17(はじめましてこんにちは)