テキスト | ナノ

「家を出ることにしたんだ」
 高校の卒業式が終わって三日経つ。
 黒子は、京都から帰ってきた赤司と久々に会って昼食を取っている。
 そこは、若い夫婦が個人経営で開くこじんまりとした洋食屋だった。出てきた料理はとても温かい。
 それを食べ終わったころに、赤司がさっきの言葉をぽつりと言った。
「それって……」
 黒子は探るように赤司の瞳を覗く。そこにはいろんな表情が渦巻く。誇らしげな、少し寂しそうな。
「ひとり暮らしをするんだ、大学の近くに部屋を借りてね」
「それはいつからですか?」
「引っ越しは昨日終わった。事前に言ってなくてすまない」
 造作の整いすぎる赤司の顔がちょっとだけ歪む。それでも美しい人に謝られた黒子は、慌てて左右に手を振る。
「いえっ、いいんです、キミはいまちゃんとボクに話してくれたでしょう。それだけでうれしいです」
「ありがとう」
 笑った。赤司が笑うと黒子の心にぽっと温かいものが湧く。黒子にとって大切なものだ。それをしっかり抱いて話を続けた。
「それにしても卒業式から今日までにお引っ越しとなると大変だったんじゃありませんか? ボクで役に立てたかは分かりませんが、手伝いましたのに」
「まああまり持ちこむものもなかったし、それに、はやくあの家から出たかったんだ。父のいないところにね」
 それを聞いた途端、黒子は答えに詰まってしまった。ただ、赤司くん、と名前を呼ぶしかできない。
「べつに、消極的な思いで決めたわけじゃないよ。オレはひとりになって赤司の家のことを、父のことを考える時間が欲しい。ちゃんと向き合うために」
「……はい」
「ただ、それにはすごく長い時間がかかると思う。その間、オレは独りだ。血の繋がりのある愛しい人たちは皆オレの前からいなくなってしまったから。オレのなかには、もうあいつはいないから」
 赤司が言葉を区切る。
「だからオレはお前にそばにいてほしいと、思う。黒子、オレには、お前だけだよ」
 赤司の黒子への思いは日がな一日ごとに色濃く移り変わる。それはいつか何もかも壊してしまう爆弾を抱えるようであった。
 しかし、黒子はその恐怖すらも、赤司のためならば平気で乗り越えてしまうことができる男だった。
「ボクはずっといます、赤司くんのそばに」
 執着心や独占欲など、人間なら誰しも持って生まれた薄暗い感情を黒子は丸ごと包んで抱き締める。
 そうと分かっていたから赤司は肌身近くに備えていたものを上着のポケットからそっと取り出した。
「じゃあ、これを受け取ってくれるかな?」
 赤司の手に握られたのは真新しく輝く鍵だった。つまりは、これから赤司がひとりで住む部屋の合鍵だ。
 黒子は空色の目を丸くして、唇を震わせる。
「これ……ボクがもらっても……」
「ああ、持っていてほしいな、黒子に。それでオレに会いにきて」
 黒子は自分の目頭がじんわりと熱くなるのを思いながら、手を伸ばす。受け取った鍵は少しだけ湿っていて、温かかった。


2016.06.09(心を抱きしめるための鍵)