六月も中頃になると、毎日のように雨が地面を濡らした。梅雨である。このころの雨は、本格的な夏に向けて上昇していく気温で変にあたためられて、肌にまとわりつくようないやに生ぬるい湿気をふくんでいる。暑いのだか寒いのだか、人間を戸惑わせる季節だ。 放課後、黒子はひとりで廊下を歩いていた。窓の外ではやはり雨が降っている。どんよりとした灰色の雲が見渡す限り空を覆って、そこからしとしとと慎み深く雨が降りそそぐ。 窓辺にふたりで並ぶ男子生徒の片方が「また中練かよー」と不満の声をでかでかとあげていた。どちらともに、野球部のユニフォームを着ている。つねであれば解放された空のもとで行われるスポーツだから、連日つづく閉塞した建物のなかでの練習に、フラストレーションでも溜まっているのだろうか。バスケ部の黒子には、耳新しい考え方だった。 そう思いながら歩いていると、向こうから見知った人物がやって来た。 「やっほー、黒ちん」 紫原が黒子に手を振って、のんびりと口を開く。指先にはさまれたポテトチップスもいっしょになって左右に揺れた。あげていないもう片方の手には、開封したきらきらしい袋がしっかり握られている。 互いにいったん歩みを止める。黒子は自分よりはるかに高い紫原の顔をまっすぐに見あげて、ちいさく首をかしげた。 「今日は黄瀬くんといっしょじゃないんですか?」 紫原と黄瀬は、同じクラスだ。黄瀬がバスケ部の一軍に昇格してからは、ほとんどそろって体育館に姿を現していた。 「ああ、黄瀬ちんはねえ、逃亡した」 「えっ、部活を、ですか?」 紫原は手にした袋のなかをガサゴソあさりながら首を横に振った。 「ううん違うよ。女の子から逃げてたの」 「はあ……」 「なんだかねえ、いつもと違ったんだよね、女の子のほうが。台風直撃みたいな?」 それは逃げたくなるかもしれない。だれだって好きこのんで危険にさらされていたくはないだろう。 「たいへんそうですね」 「かもねー」 黒子は眉ひとつ動かさず、紫原はポテトチップスをもりもり食べながらチームメイトのことを、彼らなりに思案した。 「んじゃ、オレもう行くね」 「はい」 そこにきてはじめて、紫原が袋をあさる手をはたと止めた。 「つうかなんで黒ちんこっち向いて歩いてんの? 体育館はあっちでしょ」 「いまから委員会なんです。図書室に行かないといけないのでこっちです」 「なるほどね」 ふたりはあっちこっちと指をさしあった。黒子の目の前につき出された紫原の指先には塩やらカスやらが点々とくっついていた。 紫原はいたずらを思いついた子どものように顔を明るくすると、その指先をぺろりと軽く舐めてきれいにした。そしておもむろに制服のポケットを探りはじめる。 「あったあった、これこれ。はい」 広げられた紫原のおおきな手のひらのうえには、ふたつのアメがころころと身を寄せていた。魔法のようにいきなり現れたそれらを、黒子はじいっと見入ってしまう。 「ほらあ、なにしてんの」 すぐに焦れた紫原が、ふたたび黒子の目の前まで手をつき出す。いちごとぶどうの、それぞれかわいらしくプリントされた袋が揺れた。 「ボクがもらっちゃっていいんですか?」 「うん、いっぱいあるから。それにこれから委員会がんばらなきゃでしょ?」 黒子は口をちいさく微笑ませると、ありがたくふたつのアメを紫原の手のひらから受け取った。 「じゃあまたあとでね」 「はい、部活で」 ふたりはまた歩きだしていった。 委員会は簡単に終わった。図書室利用時の見直しや貸し出し受けつけの注意点などを、配られたプリントでいまいちど読みあわせして確認した。文字を追っている間は頭も身体も動かす必要はなく楽だったが、最後にひとつ宿題を出された。月に一回発行される図書館便りに、新たな企画をはじめるのだそうだ。題して『私の一冊』。いままでに読んだことのあるどんな本でもいいので、一冊の読みどころを書いて提出する。そのような宿題だ。 黒子は図書室から部室へ向かうため、ふたたびひとりで廊下を歩いていた。先ほど出された宿題にどうしようかと首を捻りながら歩いた。 黒子はふだんから本を読むほうだ。いままでに読んださまざまなタイトルが、頭に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していった。どれも自分のなかでは良作だ。それをひとつにしぼるとなると、ううん、と唸ってしまう。しんとして静かに立ちならぶ教室の前を、ひとつふたつとあっという間に通りすぎていった。 そうやってすこしうつむきながら考えふけっていたせいだろうか。黒子は前方からえらい速度で迫る足音に気がつかなかった。廊下の角をちょうど曲がりかけたとき、だれかと激しくぶつかった。視界がぐわんと揺れ、黒子の身体がうしろへ傾く。悪かったのは雨のせいでリノリウムの床が湿気っていたことだ。踏みとどまろうとした踵が、つるりと滑る。 黒子はじょじょに視界に天井が見えるのを、あっと思いながら、おそってくるだろう衝撃にそなえて身をかまえた。突然のことで、声は出なかった。 「危ないっ!」 ほとんど怒号のように聞こえたのは、黒子のよく知る声だった。それと同時に、腕をつかまれる。ぐいっと引っぱられる握力にちりっと骨が軋んだ。その痛みでようやく目が覚めるようだった。黒子が事態を理解したときには、すでに向きあう人物の、腕のなかに抱きとめられていた。 「ああー……、びっくりした」 頭上で漏らされたため息が、黒子のつむじを揺らす。肩をちいさくふるわせて、黒子はおそるおそる目をひらけた。学校指定のワイシャツの、涼やかな水色が見える。頬を胸に押しつけられているのだとわかると、急に相手の心臓の音が聞こえだした。すこし面白いくらいにどくりどくりと鳴っている。 黒子は自分の身体をすっぽり覆う腕からするりと逃げると、背の高い相手を見あげた。やはり、黄瀬が茫然として立っていた。 「黄瀬くん、大丈夫ですか?」 黄瀬は黒子の存在をようやく認識すると、形のいい唇を震わせた。 「あ、く、黒子っち? ごめっ、オレ」 なんだかとても慌てているようだった。黒子がまた口をひらきかけたとき、角の向こう、黄瀬の背後のほうからバタバタとおおぜいの乱れた足音が聞こえてきた。黄瀬は途端になにか不味いものでも食べたように、あからさまに顔をしかめた。舌打ちでもしそうないきおいだ。 「ごめん黒子っち」 「えっ、」 「ちょっとこっち」 黄瀬は黒子の細腕を強引につかんだ。そして黒子がなにかを言う前に、手近にあった空き教室にふたりで飛びこんでいた。 教室のなかに入ると、黄瀬はすぐに黒子を廊下側のすりガラスでつくられた窓のしたに追いやる。その隣に自分も並んだ。 「あの、き……」 「しっ。静かに」 黄瀬はいつもより低い声で言った。すこし掠れた声が、彼の真剣さを語っている。黒子はそれ以上言わず、おとなしく黄瀬に従った。 それから黒子たちと入れかわるように先ほどの慌ただしい足音たちがやって来た。どうやら足音の正体は女子みたいだ。何人かがたばになって、黄瀬と黒子が隠れている教室のすぐ近くで足を止めたのだろう。黄瀬くん、どこ行っちゃったのよと、半ぶん怒るような口調で口々に甲高い悲鳴をあげている。 黒子は黄瀬にちいさく視線を送った。黄瀬はきれいな顔いっぱいに苦笑いを浮かべるほかなかった。 しばらく近くで騒いでいた足音も、やがて遠のいていく。えも言われぬ緊張感にそろって呼吸を止めていた黄瀬と黒子は、ほぼ同時に息を吐き出した。先に黒子がふふっと笑う。 「人気者はたいへんですね」 三角に折った膝を抱き寄せながらこっそり話す黒子に、黄瀬も気を抜くように天井を振りあおいだ。 「ほんっとたいへんっスわ」 「無関係なボクをむりやり巻きこまずにいられないくらいにはたいへんそうです」 「うう、ホントごめん黒子っち。あのときはちょっとオレ、もう必死でさ」 「べつにいいですけど」 あれだけ騒がしかったあとの反動だろうか。教室のなかはすっかり静まり返っていた。外側にある透明な窓ガラスの向こうでは、雨が飽きることなく降りつづいている。 ふたりは平穏を取り戻してからも、そのまま動かず、そこにいた。黒子の提案である。黄瀬を追う女子たちがまたこちらに戻ってくる可能性も捨てきれない。様子を見るべきだ、そう言われると、黄瀬は素直に納得した。黒子をむりやりにでも連れていなければ、黄瀬はまたしてもあのえんえんとつづく鬼ごっこのようなものに捕まっていたかもしれない。 黄瀬ががっくりとうなだれる横で、黒子はすこし肌寒さを感じた。教室は電気もつけなければむなしい薄暗さばかりが広がり、いつまでも耳のなかをざわつかせる雨音に体温を奪われていくような錯覚をする。黒子は膝を抱える腕の力を強めた。 そのとき、胸のあたりからかさりとなにかがこすれるちいさな音が鳴った。黒子がワイシャツの胸ポケットに指先をしのばせると、アメの袋がふたつ出てきた。紫原からもらったものだった。黒子はそれを手のうえで遊ばせながら、いちごとぶどうなら、と言う。 「どっちが好きですか、黄瀬くん?」 「えっ、なに」 木床版のマス目をぼんやり数えていた黄瀬は、突然の申し出に身体を傾けた。黄瀬と黒子の肩がちょんっと触れる。 「紫原くんからもらったアメがあるんですけど、味がいちごとぶどうなんです。食べますか?」 「ああ、だったらぶどうのほうがいいなあ」 「どうぞ」 黒子は言われたとおりに、ぶどうの絵がプリントされたほうを黄瀬に渡した。黄瀬が、ありがと、と言って明るく笑うのに黒子もほんのりと笑った。 黒子は、自分の手にひとつだけ残ったいちごのアメの袋に指をかけて、さっそく裂きにかかった。けれどもなかなかうまくできない。何度かつるつると指をすべらせながら、黒子はようやく袋のなかに赤く染まったまるい玉を見つけた。口にふくむと、それはとたんに舌のうえでじんわりと溶けだした。凝縮されていた甘ったるい汁が黒子の唾液とあいまって腔内にとめどなく広がる。いちご味のアメだ。 それを上顎と舌とで押してみたり、からころっと転がしてみたりしながら、黒子は口をひらいた。 「アメをもらったときに紫原くんが言ってました」 「うん?」 「さっきの女の子たちのことを台風みたいだって」 「あはは、それあってるかも」 黄瀬が、ころがるアメのように軽やかに笑う。 黒子は口のなかのアメを今度は右の頬に寄せ、そこだけ頬を膨らませて言う。 「今日はとくべつにすごかったとか……。キミなにかしたんじゃないんですか?」 「なあんか人聞き悪いっスね」 「すみません」 「ううん。けど、そうっスね。今日がいつもと違って見えたんなら」 黄瀬は推理を披露するドラマの探偵役を演じるように人差し指を出してくるくると回してみせる。 「誕生日だったからじゃないっスか」 まったく予想しなかった推理の結論に、黒子は空色のおおきな瞳を丸くした。外が晴れていればちょうど彼の目に浮かぶような色を見ることができるのだけど、あいにくと今日の空は雨だ。 「あの、だれの誕生日だったんですか?」 「ん? オレっスよ」 「黄瀬くん、の」 「そっ」 六月十八日。六月も中頃の今日、まぎれもない、黄瀬涼太の誕生日だった。 黒子はそのことを、いまはじめて知った。今日という日をなにも知らないまま、ただいつものように過ごしていた。黒子は自分のなかの常識の殻を、打ち砕かれた気分になった。ちいさく丸めていた背をすこし正した黒子は、黄瀬の目をまっすぐに見る。 「お誕生日おめでとうございます」 「うん、ありがと」 黄瀬はふにゃりと顔をほころばせた。 「まさか黒子っちにそういうふうに言ってもらえるとは思ってなかったからマジうれしいっス」 「おおげさですね」 否定するようなことを口にしながら、黒子の内心は弾んでいた。自分の言葉ひとつでそこまで喜ばれるとは思っていなかった。だからよけいに、形の見えないちっぽけな言葉しかあげられないことに、負い目を感じる。 「なにかもっとべつにプレゼントできるものがあればよかったんですけど、すみません」 「なに言ってるんスか。オレは黒子っちが、おめでとう、ってオレに言ってくれただけで満足っスよ。それにプレゼントなら、さっき、アメもらったし」 「でもそれはもともと紫原くんのものでしたから」 「黒子っちってやっぱ真面目だなあ」 黄瀬がおどけたように、首をすくめる。そうですか? と黒子は動かしづらそうに口をもごもごさせた。 黒子の舌のうえで、みずみずしく光る赤い玉が踊る。その光景を、黄瀬の視覚がとらえた。濡れた舌と、赤い玉。同じ色がちいさくひらかれた黒子の桃色の唇からいっしょになって覗いている。その間にも甘い甘い汁が溶けだしてくるのだろう。黒子の舌が、うえに、左右にと動く。なにかをなまめかしく誘うような動きにしか、黄瀬には見えなかった。 そんなのはただの錯覚だ。しかしいちど幻に犯された黄瀬の思考は夢現の狭間でさまよう。頭で考えるより先に、誘われるがままに、身体が動いた。 ふたたび、黄瀬と黒子の肩が触れあう。黄瀬の輪郭をした影が黒子の頬に落ちて、黒子が、えっ、と 言った間に、黄瀬は唇を重ねた。スムーズに黒子の腔内へ舌を滑りこませる。 甘いなあ、というのが黄瀬の最初の感想だった。まるで虫をほだすために花が密を溜めるみたいに、黒子自らがその甘さをつくりだしているのではないかとも思った。いちご味の、甘い密。誘惑の味だ。 黄瀬の舌がすみからすみまで探るように黒子の口のなかで動く。 「んん、ふっ、あ……」 黒子の言葉にならない声がなにかをうったえる。腰を浮かせた黒子の後頭部がすりガラスの窓にごりごりと痛々しく鳴るのもかまわず、黄瀬はすくい取るようにさらに舌をからめる。 ついに探していた甘味の根源を見つけた。黄瀬はそれを器用に動く舌で遠慮なくいただいた。唇を離すさい、ちゅっと軽く舌先を吸うと、黒子の肩がビクリと震えた。 「黒子っちのアメ、もらっちゃった」 黄瀬が行儀悪く黒子に向けて舌をつき出す。そこにあるのはすこし前に黒子が自分の口に放りこんだはずの、ちいさな赤い玉。いまはふたりぶんの唾液に濡れてテラテラと光るのを見て黒子は顔を赤くした。やがていちご味のアメは、宝箱に蓋されるように、黄瀬の口のなかへ消えていった。 黒子が床にへたったままなにも言えずにいると、黄瀬が黒板のうえにある時計に顔を向けていきおいよく立ちあがる。 「えっと、もうそろそろ大丈夫っスかね」 黄瀬はほんのり赤らんだ目もとを笑わせると、オレさきに部活行ってるっスね、と矢を飛ばすように宣言して、さっと教室を出ていった。 ひとり取り残された黒子はしばらく茫然としていたけれど、次第に大きくなる心臓の鼓動に息をのんだ。苦しいくらいに脈打つそこを両手で押さえて背中をきゅっとまるめる。 キスされた。同級生に、男に。深く飲みこまれるようなキスだ。どこか得体も知れない場所へ、連れて行かれてしまうように思った。けれどそれは恐いものではない。他人の舌で腔内をまさぐられる感覚が気持ちいい、黒子はキスされる間中、たしかにそう感じていた。 自分の考えたことに頭のなかがカッとなり、黒子は身体を縮こまらせながら強く目をつぶった。 「はあ……、どんな顔をすればいいんでしょう」 頬に火照りを残すなか、黒子がゆっくりと目を開ける。窓の外は、しゅむしゅむといまだ雨が降っている。少しでも黒子の熱された体温を癒してくれるようでいまの黒子にはありがたいことだった。 梅雨が明けるまでもう少し。雨に隠れた太陽がからりと輝く季節、黒子の心もきっと安らかに晴れわたっていることだろうが、それはまた先の話。 2016.06.18(夢も愛もこいこい、夏よ) |