テキスト | ナノ

 黒子が中学二年生になった五月。
「テツってさ」
 と、隣を歩く青峰が口を開いた。
 休日部活の帰り道だった。練習量のとにかく多い帝光中バスケ部は、学校が休みの日は決まって一日練習になる。けれど一日練習となると、解散時間は平日よりも少しだけ早まる。いつもは真っ暗で、立ち並ぶ街灯をたどらなければ見ることができない景色も、いまは目に染みるようなあざやかな橙色に包まれている。五月の爽やかでちょっぴり切ない夕風がデコボコに並ぶふたつの影の間を駆けていく。
 黒子は視線を送ることで、静かに返事をした。それを認めて青峰がつづける。
「なんか最近、影薄くなくねえ?」
 黒子はその言葉に、大きな空色の瞳をわずかに真ん丸くした。
 黒子テツヤとは影が薄い。存在感がない。どれほどかと言うと、目の前から声をかけても相手に気がつかれないくらいにはない。
 その真骨頂のおかげで、最近バスケ部の一軍入りを果たすことができた黒子だったけれど、どうにも影が薄すぎていつも周りを驚かせてしまう。日常生活ではもっと存在を主張しろしろと言われる黒子にとって、青峰の言葉は天からひと筋の光が差しこむようだった。
「え、ホントですか、青峰くん?」
「ヤ、影が薄いのは変わんねえんだけど」
「どっちなんですか」
 黒子の声音が上がって下がる。どうやら青峰も、まだ自分の考えがまとまっていなかったらしい。彼はときおり深く考えずに言葉を発する癖がある。
「ええーっとつまりだなあ……。影薄いのに、テツがいつもアイツらといっしょにいるからよぉ」
「誰のことですか?」
「それはほら、黄瀬とか紫原とか」
「ああ」
「で、なんつうかそれ見てるともやもやする」
「誰がです?」
「オレがだよ」
 それはいささか唐突な告白だった。青峰は自分で言ったにもかかわらず、数学の難解問題を顔前に突き出されたような顔で、後頭部をがしがしと掻く。本人がそんな調子であったから、言われた黒子も、そうでしょうか、とただ首を傾げるしかなかった。
 青峰とくらべるとずいぶん背の低い黒子が、口をぽかんと半分開けて青峰を見あげる。ひと際印象の強い大きな瞳が夕陽に反射して、波打つようにきらきらと光る。開いた唇の向こうに赤い舌がちろりと覗いていた。
 青峰は黒子の赤い舌と薄っぺらい唇から目が離せなくなった。あおみねくん、と自分の名前を呼び、動く唇がスローモーションに見える。青峰はあっ、と考える間もなく黒子の細腕を掴み、自分のほうに引き寄せた。そして、唇を、ずっと見ていた黒子の唇に重ねる。唇と唇の間で、ふわりと空気がはじけた。青峰と黒子は、キスをしていた。
 キスはちょうど瞬きふたつくらいの短いものだった。黒子は驚きのあまり身体を硬直させ、ずっと目を開いていたから瞬きはしなかった。
「……帰るか」
 お互いによろめきながら離れると、青峰はそうとだけ言った。黒子は自分のローファーの先に向かって、必死に首を縦に振った。壊れた首振り人形のようにがくんがくんと振った。青峰の形のいい耳の裏と、黒子のちいさな鼻柱が赤いのは、もちろん夕陽のせいだけではない。


2016.06.15(夕陽に沈むは白いベーゼ)