テキスト | ナノ

 放課後、担任との面談を終えて、黒子は遅れて部室へ向かう途中だった。渡り廊下に差しかかかるころ、少し離れたところにどっしりとした大きな背中が見えた。木吉だった。彼も面談だったのだろう。一昨日から校内一斉に行われているので、その可能性が高い。
 そんなことを考えながら歩いていると、木吉の制服のポケットから何かが顔を出してあっという間にひらひらと舞い落ちた。本人はそのことに気がついていない。黒子は小さく駆け、それを拾い上げた。字の書かれた面を外にして四つ折りにされているその紙は、進路調査表だ。就職、と印刷された文字にくっきりとマルがつけられている。
 その気がなかったとは言え部活の先輩の進路を無断で覗き見てしまったことで、自分の中に罪悪感のようなものが生まれる。黒子は何とかして、それをはやく手放さなければと思い、木吉を追いかけた。
「あの、先輩」
「おっ? うおおっ、何だー、黒子か」
 のったり振り向いた木吉は、驚いたような声を上げるその実、あまり慌てた様子もなく、いつものおおらかな笑みで黒子を見下ろした。
「お前も遅刻組か?」
「はい。あの、それよりも落としましたよ」
「ああ、ありがとな」
 木吉は黒子から進路調査表をあっさり受け取り、制服のポケットの中へ今度こそきちんと仕舞い込んで、上からぽんぽん叩いて見せた。
「一緒に部活行くか」
「はい」
 そんなやり取りののち、ふたりがそろって向かった部室はとっくに人はいなくなっていて、がらんとしていた。活気のないその部屋はいつもに比べて寂しそうだ。それぞれのロッカーへ向くと、さっそくふたりは静かに着替えをはじめた。
 黒子はまずベルトを外して重みのある制服のズボンを脱ぐと、すぐに動きやすいハーフパンツを腰まで上げた。次にカッターシャツのボタンを指でつまみ上から順に開いていたとき、「なあ」とひと言、その静寂が破られた。黒子が声の方を振り向くと、木吉はシャツを脱いで背筋のたくましい背中をさらしていた。
「一年のこの時期の面談でも、進路について話すんだったか?」
「はい、そうですね」
 今日行われた面談で、黒子は担任と学校生活や交友関係についてもさることながら成績と進路の話を主にした。「お前は成績も生活態度も悪くないのだからもう少し自己主張をしてくれ」と再三念を押されもした。けれど、こればかりは簡単にどうなるものでない。当人だっていつも努力はしているつもりだ。
「黒子はもうどこに行くのか決めてあるのか?」
 木吉は黒子の方は見ないで着替えを進める。黒子もそれにならって再びボタンを外しはじめた。
「とりあえず進学を一番に考えてます」
「とりあえずか」
「まだどういうことをしたいのかわからないので、はっきりとは決めていません」
「うん、そうだよな。まだわからないよな、そんな先のこと」
 肩を揺らして木吉は軽く笑った、と思えばすぐに意を決したような面持ちになる。
「けれどいつかは、先に進まなきゃいけないんだよな。誰だってずっとここにいることはできない」
 遠い未来を想像することは楽しくもあるけれど、不安に感じることの方が大きいように黒子は思う。はやく大人になりたいと思う反面、まだ大人にはなりたくないという葛藤を黒子と同じように木吉も胸の中にかかえているのだろうか。
 カッターシャツの最後のボタンを外すと、黒子は木吉の制服のポケットに静かに詰め込まれた四つ折りの、あの紙を想いながらそれを脱ぎ捨てた。このTシャツを着れば、もう部活だ。


2016.01.05(春よ、もう少し待ってね)