テキスト | ナノ

 高校を卒業する間際、赤司は黒子に「お前の家に行きたい」と言った。黒子はその言葉に心底驚いたようだったが、すぐに微笑を浮かべて「はい」と返事をした。
 中学から交友のある二人だが、赤司が黒子の家を訪ねるのは初めてだった。というより赤司が気を許した人間の自宅に行きたがること自体が初めてのことだった。
 黒子の家は、一戸建てでそれほど大きくないが、色とりどりの花を咲かせるプランターをきれいに並べられた庭もあり、立派なものだった。赤司は少しの間、きちんと手入れされたその庭を見ていたが、やがて「こっちです」と黒子に呼ばれると、素直に手招かれるまま歩いた。
 黒子が引き戸に手をかける。カラカラカラと耳障りのいい音とともに玄関が開かれた。すると赤司の目に、黒子の背中越し、ひとりの老婦人が上がり框に腰かけ靴を履いているのが映った。
「あ、おばあちゃん」
 靴を履いた老婦人の姿を確認するやいなや、黒子は声を弾ませた。そして彼女がゆっくり立ち上がるのを見て、外で待っていた黒子は少し体を引いた。その後ろにいた赤司も同様に。
「おばあちゃん、これからお散歩ですか?」
「ええ、少し歩いて来ようかと思って」
「それは気をつけていってらっしゃい」
「ありがとうね。ところで後ろの方はお友達かい」
「はい、中学の頃から仲良くしてもらってる人なんですよ」
 黒子の祖母と目が合い、赤司は自然と会釈した。瞬間、視線が外れて赤司が再び体を起こしたとき、彼女は黒子とよく似た優しい目をして赤司に微笑を向けていた。
「テツヤがいつもお世話になっています」
 窓から差す柔らかい陽の光を思わせる声音で、ごゆっくりねと言い残して黒子の祖母は出かけていった。次第に小さくなる彼女の背中をふたりで見送ったあと、黒子はいよいよ家の中へ赤司を招いた。
 玄関に足を踏み入れた瞬間からあっという間に、赤司は身も心も不思議な安心感に包まれた。黒子の家の中には落ち着いた静けさがあり、かと言って冷え切っているわけではない。むしろ手をそっとぬるま湯に浸したときみたいな温かさがあった。
 赤司は自分の心の奥底で、小さなろうそくがポッと灯る予感がした。玄関から続く廊下、その先や途中に見える部屋、いたる場所から赤司の知らない幼い日の黒子テツヤがこちらへそっと顔を覗かせては笑っているのが目に浮かんだ。
 黒子の部屋は二階にあった。
「キミの部屋に比べたらきっとすごく狭いと思いますけど」
 部屋の中はベッドと勉強机の他に、一面の壁を覆うように置かれた大きな本棚が目立った。彼が今まで読んだのであろう多くの小説やバスケ雑誌のバックナンバーが、きれいに整理して並べられていた。その一角にバスケットボールがおさめられている。壁掛けハンガーには誠凛高校の制服を吊してある。三年前までは、きっと帝光中のあの白いブレザーがいた場所だったのだろう。
 この家は、黒子テツヤの成長を一番見てきた場所だ。赤司が玄関に足を踏み入れたとき不思議と安心できたのは、よく考えれば当たり前のことだった。自分の愛する黒子テツヤの面影がこの家のあちこちに存在しているのだから。
「いま何か飲み物持ってくるのでてきとうに座っていてください。赤司くん、お茶で、」
 いいですかと問いかけようとした黒子の言葉は、しかし最後まで声になることなく途切れた。とつぜんグッと手を引かれて気づいたときには、黒子は赤司に正面から抱きしめられていた。
「あ、かし、くん?」
「すまない、黒子。家に行きたいだなんてオレのわがままを聞いてもらって、部屋に押し入ってまでお前をどうこうしようと思っていたつもりはないんだけれど」
 赤司は黒子の首筋へ顔を埋めて、フッと息を吐くと、黒子を抱きしめる力を強めた。
「もう少しだけ、このままでいさせてくれ」
 赤司はそうと言って口を閉ざす。黒子は彼の髪が首を擽るのにふるふると体を震わせはしたが、何も聞かず、何も言わず、答える代わりにただそっと背中へ腕を回した。


2015.12.20(かつての影の想いは今も)