暗闇の中で音が聞こえた。細い糸の上を滑らかに伝うように届くそれは、むかし母親が口ずさんだ子守唄みたいに柔らかに響く。 身体がふわふわと宙にたゆたう感覚を引きずりながら、黒子は目を覚ました。目を開いた瞬間、窓辺に差す陽光が部屋のいつもと変わらない景色を黒子に見せる。リビングのソファーで読書していた彼はいつの間にか眠ってしまったらしいことに気がついて、伏せた身体をのそりと起こした。肩から身に覚えのないタオルケットがずり下がる。 部屋の中は空気も一緒に眠ってしまっていたかのように静かで、音ひとつない。黒子はぼんやりとして思考をなさない頭を左右にみっつ振って、おもむろにソファーから降り立った。聴覚に微かに残る夢の音。それに導かれるように黒子は歩き出した。 黒子が立ち止まったのは、防音室の前だった。ドアノブに手をかけて扉をそっと押したら、数センチできた隙間から秘密の抜け道をサッと通り過ぎるように音がとたんに逃げ出す。黒子はそれにもかまわず、中をちらりと盗み見た。赤司が、バイオリンの音を途切れることなく奏でつづけていた。黒子が夢で聞いたのは、おそらくこの音だ。女親のすべての愛情を詰め込んだような、切なくて、愛おしい音色だった。 ふたりで部屋を決めるとき、赤司がひとつ条件づけたのがこの防音室だった。「黒子と食事をして、一緒に眠って、朝を迎えて、それから、たまにでいい、気が向いたときにバイオリンに触れることができたらオレはどんな場所でだって生きていけるよ」どこか悪戯めいた微笑とともに思い出した言葉は、耳に新しい。 「そんなところにいないで入って来ればいいのに」 黒子が追想から戻ると、すでにバイオリンの音は止んでいた。 ハッとした瞬間に、ちょうど楽器を下ろした赤司と目が合う。彼は余裕の表情で黒子に微笑んだ。どうやらドアの隙間から盗み見られていることに、最初から気づいていたようだ。そう思うと黒子は急に恥ずかしくなって、ほんのすこし俯きながら部屋の中に入った。 「邪魔をしてしまったみたいで、すみません」 「いいや、もう終おうと思っていたところだ」 それは何だかもったいないと思いつつ、黒子はそうとは口に出さず、タオルケットをありがとうございました、と別の違う言葉で次を繋いだ。 「よく眠れたか?」 「おかげさまで」 「それはよかった」 黒子はドアに寄りかかって、慣れたようにバイオリンをケースの中に片づけていく赤司の手を、目で追った。血色がよく線の細い、それでいて女性的ではない、とても綺麗な手だった。 「ところで黒子、何かオレに用があったか?」 「別に用と言うことはないです。ただ、バイオリンの音が聞こえたので……」 「音が? それはすまない、扉がしっかり閉まってなかったのかもしれない」 「あっ、そうではなくて」 赤司がちいさく首をかしげる。黒子は何と言ったら良いか眉間に皺を寄せて、やがてありのままを告げることにした。 「夢で、夢の中で聞いたんです。最初は誰かが歌っているように思えたけれど、あれはたしかにバイオリンの音でした」 もっと正確に言うならば、赤司の奏でる音色だった。けれど果たして断定して良いものか、黒子にはすこしだけ自信が持てなかった。先ほど腹底に飲み込んだ言葉がせり上がってくる。 「赤司くん、もう一度だけ、バイオリンを弾いてはくれませんか?」 赤司は軽く目を見開いた。 「それはかまわないが、ちゃんと聴きたいのなら今夜にでもあるコンサートの主催者にかけあって」 「いいえ」 黒子は赤司の言葉を遮って首を横に振った。光がきらきらと溢れ出てくるような笑みを浮かべ、きっぱりと言う。 「ボクはキミの音が聴きたいです」 黒子の真っ直ぐな瞳に、赤司はただ頷いた。 ふたりだけのひそやかな演奏会が開かれる。黒子はこの世に他にないたったひとつの特等席で、赤司が奏でるバイオリンの音色に心をかたむけた。 2015.09.12(二人きりの演奏会につき)フリーリクエスト企画>ナノカ様 赤司と黒子/恋愛要素あり/甘々 |