テキスト | ナノ

「じゃあ黒子、明日の10時にそっちへ行くから」
 折りたたみ式ケータイ電話の受話器越しに、黒子は赤司の声を聞く。機械を通していても春の晴れ間のような声だった。黒子にとったら、赤司のすべてが柔らかくてやさしいのだ。中学校で出会い、同じ時を過ごしていたときから。部活のときはべつだったけれど。
「はい、ありがとうございます赤司くん」
 黒子は自分以外に誰もいない部屋のなかでちいさく微笑む。誰も見ていないことが惜しいくらい、ころんと落とした表情だった。
「いよいよだな」
「ええ……」
「不安か?」
「……すみません」
「どうして謝る?」
「不安なんて、ありません。これからはずっと、キミといっしょなんですから。ただ、そう聞こえたのなら悪かったです」
 赤司が受話器の向こうで笑った。きっと口もとに手をあてて、控えめに肩を揺らして笑っているのだろうと黒子は思う。本当に笑わずにいられないほど愉快なとき、赤司はいつもそうやって笑う。黒子はその稀少な『赤司の笑顔』を度々見てきた。ときにはひいひいとちいさく言いながらあまりにも笑うので黒子が拗ねてしまうと、そのたびに赤司は「ごめん」といっしょにキスをくれた。黒子はその時間も嫌いではなかった。
「もう、笑わないでくださいよ」
「ああ、ごめん」
 ほら。
「黒子の気を損ねないうちにそろそろ切るよ。これでいっしょに来てもらえなくなったらオレが困る」
「ありえませんよ、そんなこと」
「ああ、わかっている」
 とたんに沈黙が落ちる。ときおりザザッ、ザザッとかすかなノイズが耳の内側をくすぐる。赤司の吐息がひとつ漏れた。
「おやすみ、黒子」


 通話が切れると、聴覚がぼやけていた。静かすぎる部屋のベッドのうえに黒子は身体を横たえて、室内を隅から隅まで見渡す。
 何年をこの場所で暮らしたのだろうか。明日の朝でさようならをするちいさなワンルーム。今度住むところはこの部屋が見たらきっと裸足で逃げ出すようなとてもおおきな部屋。そこにふたりで住む。赤司と黒子、ふたりで、これから、ずっと。
 実はさっきの電話、黒子はちょっぴり嘘をついてしまった。赤司に不安なのかと聞かれて、黒子は不安ではないと答えた。けれども、黒子のなかにはたしかに不安があった。プロポーズされたときから感じていた《幸せ》という不安。幸せすぎてこわいなんて人はよく言うけれど、本当にその通りだった。手につかんだものを自分がどんなに離すまいとしても、簡単に失われることを黒子はよく知っていた。
 けれど、と黒子は思う。赤司は「幸せにする」と言ってくれた。その言葉を信じたことを、黒子は後悔していない。きっとそれだけでいいのだ。
 枕に耳を押し当てると、居残っていた赤司の笑い声が黒子の鼓膜をふと震わせるようだった。黒子はこの部屋で過ごす最後の夜のふちへ腰かけ、眠りについた。


2015.05.07(さあ、愛を迎えに行こう)