テキスト | ナノ

 いつものようにバスケのシュート練習をひとりで終えて帰ろうとしたとき、ふとかばんの中を見て、オレは教科書が一冊だけ入っていないことに気がついた。それは家庭科の教科書だった。今夜とくに課題で使うわけではないが、学校に教科書を置いて帰るなどオレの意地が許さない。オレはひっそりと溜息をこぼし、教室へ向かった。
 校舎の廊下にはまだ電気がついているとは言え、粛々として静まり返っている。バスケ部は毎日どの部活動より遅くまで練習をし、その上で居残り練習をしていたのだから、空の教室がずらりと口を開けて立ちならぶ校内に他の生徒の姿がないことは、容易に理解できる。白みをおびて光る蛍光灯がオレの頭上でジジジッとちいさな悲鳴を上げた。
 教室は運よくまだ施錠されていなかったため、簡単に入ることができた。机の中をのぞき込めば、やはり教科書が一冊だけ取り残されている。オレはそれをさっさとかばんへ仕舞い、足早に教室を出た。
 ふたたび戻ってきた廊下に妙な違和感を覚える。人の姿はないと言うのに、見られている気がする。よもや、何かよからぬモノではないだろうかという気さえしてくる。いいや、そのような子どもじみた類を信じているわけではないが、たしか以前にバスケ部の女子マネージャーが噂していたな。この学校には夜な夜な『第四体育館のオバケ』が出る、と。
 背筋を下から上へなでられるような不快な感覚が広がる。そう言えば視線を感じる。かなり近くだ。けれどもオレが上下左右に目を動かしたところで、視界には何も映らない。いる。間違いなく、いる。
 ──そのとき、何かがオレの制服の裾を掴んだ。緊張した体では、とっさにそいつを振りはらうことができなかった。やられる……っ。
「緑間くん」
「……ッ! ……、……む?」
「緑間くん、何してるんですか」
「……くく、くっ、く、黒子、っだと?」
「はあ、ボクは黒子ですけど」
 オレの制服の裾から伸びている腕をたどれば、バスケ部のチームメイト、黒子テツヤの姿がぼんやりと浮かんでいた。
「ボク以外にも、まだ残っている人がいるとは思いませんでしたよ。じつは教室に忘れ物をしてしまって取りに来ていたんです。そうしたら前を緑間くんが歩いていたので」
 追いかけたんですけど、どうやら気づいてもらえなかったみたいでしたね。黒子がふふっとやわらかい笑みをこぼす。その笑顔を見て、オレは全身の力が抜け落ちる気分だった。動揺していた。おそらくそうに違いない。まったく馬鹿馬鹿しい。
 ふだんから影が薄く、無意識とは言え、たったいまオレを追いこもうとしていた男の笑う顔を見たくらいで抱きしめたいと思うなんて。
「──どうかしているのだよ」
「緑間くん?」
「いや、何でもない。それよりっ、お前はもっと自分の存在感のなさを自覚するのだよ!」
 それからそんな目で見つめてオレを動揺させるのもやめてくれっ! うるさい鼓動が止まらない。


2015.04.15(ドキドキするのはなぜ?)