テキスト | ナノ

「ねえ、聞いた、聞いた? やっぱり黄瀬くん、好きな子いるらしいよ。昨日告った子が黄瀬くんがたしかにそう言ったって言ってた」
「ええーっ」
 同じやり取りを、黒子は朝から、もう何度耳にしただろうか。興奮さめやらぬ女子生徒たちの声は、授業中であっても、箱の中に閉じこめられた波が誰かを食い襲ってやろうとさざめくようにいつまでもざわざわしていて、休憩のチャイムが鳴ると同時に蓋を開け放たれたように一気に溢れ出した。
「黄瀬くんに好きな人がいる」口をそろえてそればかり言った。

 放課後、黒子は部活へ向かう途中だった。廊下ではまた女子たちが大声で例の話をしている。五人で輪になり、廊下を半分塞いでいた。黒子はそこはかとなしに、上手くよけて通らないといけませんね、と思った。
 けれどもやはり女子たちは、横を歩いていく黒子の存在には気づかなかったようだ。耳をつき刺すような声で顔を赤くして一番興奮気味に話す女子が、突然ぐっと足を引いて輪を飛び出してきた。ちょうどその後ろを通過していた黒子は、当たる、そう予感をした。
 ところがその予感はくしくも外れた。黒子の腕をぴんっと、背後から伸びた手が引いた。視線を横にずらすが、黒子からは白色のカーディガンしか映らなかった。やむなく、顎をくいっと見上げると、黒子の腕をつかんでいるのは今日一日の噂のマト。黄瀬だった。
 賑やかだった女子たちは黄瀬の存在と、それからおそらく黒子の存在にも息を飲み、途端に静かになる。黄瀬くん、誰かが幽霊でも目にしたような声音でぽつりと呟いた。
「一緒に部活行こ、黒子っち」
 黄瀬は黒子に向けて綺麗な顔を微笑ませた。そして女子たちには見向きもせずすぐに歩いて行ってしまう。黒子は先ほどぶつかりそうになった女子に軽く会釈をしてから、黄瀬の隣に並んだ。
 廊下には、またたく間に、微妙な空気と放課後の静けさが広がった。あんなに賑やかだった女子たちは、まるで魔法か何かでどこかへ消されてしまったようだ。黒子がぶるりと背中を震わせるのと同時、「それにしても」そんな空気を割って断つように、黄瀬が口を開いた。
「何か久しぶりに黒子っちに会った気がするっス」
 彼は屈託のない笑顔を浮かべて、愉しげだった。
「そうですか?」
「そうっスよ。今日は一日中教室から出らんなかったから昼ごはんもみんなと食べられなかったしね」
「そう言えば、そうでしたね。でも久しぶりと言うには大げさだと思います」
「そうっスか?」
「そうですよ」
 黒子は天井を見上げながら、それに、と続けた。
「今日はずっとキミのことばかり女の子たちが話しているのを耳にしていたので、ボクは一日中黄瀬くんについて回られている気分でした」
「それは、」
 黄瀬が何かを言いかける。黒子は言葉の続きを少し待った。けれどもそれ以上黄瀬の声が聞こえることはなく、黒子は変に思って天井から視線を戻す。黄瀬の横顔はかすかににやついているようだった。どうして、首を傾けるけれど、真相はわからない。部室までの道のりはまだ遠い。
 黄瀬くんに好きな人がいる。
 今日、女子たちが話しているのを聞いて、黒子は意外に思っていた。本当に大切な気持ちは心の奥深くにしまい込んでなかなか表には出さない、黒子は今まで、黄瀬涼太という人間をそんなふうに見ていた。日頃は色恋沙汰とはとんと繋がりの薄い黒子だが、その黄瀬に、そう公言させる相手を考えると、なぜだか胸の辺りがざわざわ鳴っている気がした。
 黒子がそうして考えふけりながら歩いていると、いきなりブレザーの袖口がぴしっと引っ張られた。足を止めた黄瀬が黒子の制服をしっかりつかんでいた。切れ長の瞳を睫毛の先まで、スッと張り詰めさせ、迫力に満ちた色の眼で黒子を見下ろしている。それはアンタのことだよ、まるでそう言われているかのように黒子は錯覚した。黄瀬の眼の奥深くに宿る光は、それほど強かった。
「ゴミ、ついてたっスよ、黒子っち」
 ともすれば黄瀬は急に目元を和ませて、つかんでいた黒子の制服をさっさと解放した。スラリと伸びた人差し指と親指に挟んだ白い糸くずを黒子に見せる。糸くずはひらひらと宙を舞って、ふたりの足もとに落ちていった。
「さっ、はやく部活行こ? バスケする時間が減っちゃうっスよ」
 黄瀬にうながされるまま、黒子はまた歩き出す。その瞬間から息を吹き返したように、ドクン、ドクンと黒子の心臓が鼓動をせわしなく打ちはじめる。
 部室はもう、すぐ目の前だ。


2014.11.08(魔法にかかったみたいで)