テキスト | ナノ

 コンコンコン、と固く閉ざされ、いやに威圧感のある扉をきっちり三回ノックする。すぐに、はい、と大人なのか子どもなのかまだ判然としない声が、扉を通して明瞭に聞こえる。黒子は一度ぐっと腹に力を込めてから、意を決してそれを開いた。
「やあ、待っていたんだよ、テツヤ」
「赤司くん……」
 仰々しいデスクチェアを軽快に回転させ、振り向く赤司の銀朱と、鬱金の瞳が黒子を射抜く。赤司はただやわらかく微笑を浮かべるだけなのに、そうされるだけで、黒子の鼓動はもう卒倒しそうなくらい忙しくなるように変えられてしまっていた。
 洛山高校は勉学、スポーツともに優秀な生徒が各地から集まる名門校だった。学校から程近い学生寮も環境は万事充実しており、与えられるひとり部屋の設備は文句なし、誰でも使える談話室や図書館、パソコンルームなんかの娯楽場も配慮されている。
 この春、黒子は東京の家を出て京都にあるこの洛山高校へ入学した。親元を離れて、ようやく寮での生活にも身体が追いつくようになってきた。それでも、いつもどんよりとした雲が頭上を離れないような、重さや怠さといった感覚に慣れることはない。この学校に行くと決めた中学最後の夏から、黒子の全身はずっと得体の知れない何か≠ノ絡め取られたままだ。ここは息苦しい。
「いつまで扉に張りついている気だ?」
 赤司の、玉を転がすようなくすくすと笑う声に、黒子はハッとする。また、気づかないうちに塞ぎ込んでしまっていた。
「最近は、お前もここでの生活に慣れた頃かと思っていたが、浮かない表情をしているな」
「頭が痛いんです。今日は久しぶりに部活がオフなので本当は自分の部屋で休んでいたかったんです。それなのにキミが来いなんて言うから」
「今日はよく口が回るな、テツヤ」
 赤司の目がすうっと細められる。きつくなった視線が黒子の身体を縛った。けれどそんな幻想はすぐに霧散し、赤司が目元を弛緩させると同時に、黒子は緊張から解放され、ひゅうひゅうと息を吸った。
 すべて、面白いくらいに彼の意のままだ。
「何を不満に思っているか知らないけれど、洛山へ僕と一緒に来ると決めたのは、自分じゃないか」
「半ば強制でしたけど」
「最後に決めたのは、テツヤ、お前だった。最後の全中が終わってから、いいや、僕≠ェ表になったときから、ずっと僕を避けていたテツヤが、どうして進学先を同じところにしたのか」
 気になってたんだ、とまるで他人事のようにからりと言う。けれどその表情は、いまにも消えていなくなってしまいそうだと錯覚するくらいに、甘く切なかった。黒子はそれが何だかとても恐ろしいことのように思えて、今日はじめて声を荒げる。
「ボクはキミのことが……!」
 心配、だったのだ。彼が遠く離れた地で、ひとりで無茶をするのではないかと。不安、だったのだ。遠く離れてしまえば、二度とは同じ道を歩むことができなくなるのではないかと。
 だが黒子はその想いを言葉に出すことをしない。喉のそこまで出かかっていても何度と無理矢理に飲み込んだ。苦しくても身体の奥底へ沈めた。
 きっと、いまの赤司にそれをぶつけたところで、彼には何の痛手にもならないことを理解している。ちょっと押せば落下して、あっさり砕け散るガラス細工みたいな黒子の心は、今度こそ、赤司の一部として取り込まれて終わる。自分が自分でなくなってしまう危うさはすぐ近くにあることを知っている。
 だから黒子は前のめりになった身体の熱を今日も持て余し、唇を噛んで耐える。
 状況が、赤司が、変わってくれることを願いながら、何もできない、やらない、臆病で弱虫な自分が黒子は嫌いだった。
 部屋のなかに沈黙が下りる。黒子はいまだ扉に背を預けて項垂れる。先に息吐いたのは赤司だった。
「体調が悪いのであれば僕のベッドを使うといい。ただし今日はこの部屋で過ごすこと」
 それだけ言って、赤司はデスクチェアを回すと、机の上に置いてあるパソコンに向き合った。
 黒子がおずおずと口を開く。
「キミは何をするんですか?」
「ああ、今からこれでゲームをしようかと思って」
「ゲーム?」
 赤司が顎を使い示すそれに、黒子も目を向ける。パソコンの画面には『オンライン脱出ゲーム』と表示されていた。赤司がマウスを操作すると、詳細がスクロールされて見えてくる。
 目覚めるとあなたは謎の部屋に閉じ込められていた。すぐれた頭脳を回転させ散りばめられた謎を解け。部屋には全部で五人のプレーヤーが閉じ込められている。協力するのも出し抜くのも、あなたの自由。最後に笑うのは、誰だ━━?
「オンラインっていうことは他の人と会話して協力しながらクリアを目指すんですよね」
 黒子がぽつりと呟きを溢す。パソコンのディスプレイに浮かぶ協力≠ニいう文字が、黒子の網膜に強く焼きつく。どういった形であれ、赤司が、他者と関わりを持とうとしていることが、黒子の心に安心感を与える。それだけで久しぶりに肩の力が抜けた。
「赤司くんは中学のときも謎解きとか得意でしたから、すぐにクリアしてしまいそうですね。それに、誰かと一緒にやるのならきっと楽しいでしょうし」
「そう言いながら何だかお前のほうが浮かれているな。久しぶりに見た、テツヤの笑った顔」
 指摘されて、黒子はようやく自分の口元が緩んでいたことに気づいた。一瞬でも赤司の目の前で油断してしまったバツの悪さと、昔と同じように、一瞬でも彼に心を預けることができた自分への気恥ずかしさから、黒子は笑みを手で覆って、顔を背けた。
「ボクは小説でも読んで時間を潰します。本、お借りします」
 そう言って、赤司の返事も待たず、部屋の壁沿いに設置された本棚から手早く文庫本を見繕ってベッドの脇にさっさと腰を下ろす。赤司が可笑しそうにころころ笑う。そんな声から耳を塞ぐように、黒子は小説の表紙を捲った。
「ゲームに勝つ方法はひとつではないのだけどね」
 赤司が口のなかで殺した言葉は、すでに黒子には届かない。


 最初こそ黒子は緊張していたが、手に取った本を一頁、また一頁と読み進めるにつれて余裕を取り戻していく。物語の世界に没頭するのが楽しかった。
 しかし、余裕が生まれると今度は視野が広がる。何か変だ、おかしい、違っている。その何か≠ェ一度気になり出すと、黒子はもう、楽しい世界にはいられなくなってしまった。部屋のなかの異変を無意識に探してしまう。
 黒子はふと、赤司を見た。パソコンでオンラインの、他人と関わりを持って、協力をして謎を解いていく脱出ゲームをするのだと言っていた。会話は、チャット形式で進み、キーボードで文字を打てば可能となる。でも赤司はキーボードに、一度だって触れていただろうか?
 黒子は、急に高い場所から宙に放り出されたような心細さに襲われて、気づけば立ち上がっていた。赤司の肩口を通して、ゲーム画面を見る。
「あの」
「なんだい」
「ゲームってもう始まってるんですよね」
「ああ、もう終盤だよ」
 画面にはプレーヤーがいままでにやり取りしてきたのだろうチャットのログが映っている。会話の前にそれぞれハンドルネームが書いてある。アイ、キヨ、ラッキーナウ、ミスト。四人。いまだ目まぐるしく上書きされるチャットはこの四名の名前しかない。おそらくゲームの舞台なのであろう、画面上の体育館倉庫にも四人のキャラクターが身を寄せて、知恵を出し合って、アイテムの使い方を一緒に思案して謎が解ければ喜びを分かち合っている。四人。このゲームは、五人のプレーヤーが閉じ込められているはずだったのに。
 すると、パソコンのスピーカーからビリビリと電流の走るような音が鳴って、部屋の空気を歪に裂いてしまう。ゲームのなかで、四人が流れてきた水と電流のせいで感電している。
 黒子の隣で赤司が笑った。彼の手がはじめて悠然と動くのをどこか遠くに感じながら、黒子は見た。
 赤司の操作によってひとつのバスケットボールが報知器に命中して、電流が無事に止まった。けれど他の四人にはもう体力ゲージが残っていなかった。そうして、いままで画面上には姿を現さなかった真紅の髪をしたキャラクターが、流れた水で浮かんだパスワードを入力すると体育館倉庫の扉が開いた。ゲームクリア、だ。
「呆気ないものだ」
 その声に感情はなかった。ただ、事前に知っていた事実をもう一度説明され、へえ、そうなのか、とでも言うみたいに。
 赤司がすらりと細長い指でキーボードを叩き、文字をつらねていく。
『みんなご苦労様。参加者は五人と最初から告知されていました。全プレーヤーを把握しなかったのはあなたたちのミス』
 レッドエンペラーという名前とともにピコンッと軽い音で送信されたメッセージが、ディスプレイの目の前に座っている人たちにどれだけ重くのし掛かることだろう。いままで積み上げてきた努力や喜びを、たったの一瞬で覆され、壊され、悪いのは才能を持たない人間だと突きつけられる。
「今日も勝ったよ、テツヤ」
 赤司が黒子を振り返って、穏やかに言う。黒子の手は、強く握りしめたせいですでに真っ白になっていた。
「キミは最初からこんな勝利のためだけにゲームに参加したんですか?」
「何を期待していたのか知らないけれど勝ったのは僕だ。そして、すべてに勝つ僕は、すべて正しい」
 そうだろう、テツヤ。ねっとりと全身に絡みつくような声で名前を呼ばれて今度こそ黒子は後ずさった。逃げなければいけないと、本能が叫んでいる。しかし瞬間の思考が赤司相手にはもう後手なのだ。
 気がついたときには腕を取られ、抵抗しようとすればベッドの上に捩じ伏せられた。男の力で両腕をシーツに縫いつけられて腹に跨がれれば、高校に入学してから碌に食事を通さなかった黒子の華奢な身体では振りほどくことも敵わない。
「いまからお前を抱く」
 耳元にそっと息を吹き込まれる。それだけで黒子はびくりと身を竦める。身体はもはや黒子のモノではなかった。そういうふうに作り替えられていた、赤司の手で。
 黒子の反応に満足したのか、赤司は密着していた身体を離し、上から黒子の姿を見下ろす。
「僕は今日機嫌がいい。だからいつもよりうんとやさしくしてあげようか。ねえ、テツヤ」
「こんなことを何回したって、ボクの心だけはキミのものにはならない!」
 虚勢を張りながら、いつ壊されてしまうのかと恐怖している。絶望し、期待し、希望を掴みかけてまた絶望する。そんな感情の激流のなかにいては、いつか本当に心が死んでしまう。分かってはいる。けれど黒子には赤司を捨て置いて逃げ出すことなどできなかった。
 たすけて、と黒子が願う相手もまた、赤司征十郎だったから。
「嘘つき」
 赤司の口から漏れた言葉を飲み込むようにして、黒子は自ら唇を繋げた。


2020.04.28(灰かぶりの雨空の輪舞曲)