テキスト | ナノ

 もうすぐ中学も学年が上がって二年生になろうとする春先、帝光中バスケ部の合宿が行われていた。正確には、いつもの数倍も鬼畜とも思えるような練習メニューはすでに終了しており、残るひとつのイベントが、メンバーの親睦を深めるために協力してカレーを作ること、らしい。
「これは代々一年生が作るってのがウチの伝統だ。てことで、今年はお前らが一軍の奴ら全員分の飯を作るんだ」
 とキャプテンの虹村に指を差された赤司、紫原、青峰、緑間、黒子(ただし灰崎は欠席)は、横一列に並んで好きずきに表情を浮かべた。
「買い出しから調理から盛りつけまでちゃんと分担して効率よく作業すること。自分にできることを率先して見つけろ。上手くコミュニケーションを取ってやれよ」
 そして上手くコミュニケーションを取った′級ハ、緑間と黒子が買い出し、残る三人が調理の準備をし始めることに決まった。
 近所のスーパーまでランニングする道中、緑間が独り言つ。
「どうしてオレが買い出し係なのだよ」
「は、は、キミっ、三学期にあったお味噌汁の調理実習でッ、はあっ、材料をほとんど、ハッ、消失させた、そうじゃないですか」
 緑間より半歩遅れた黒子が息も絶え絶えに言う。
「ふんっ、赤司め、クラスも違うのによくもそんな拾い話を覚えていたものだ。というかお前の体力のなさは本当に問題なのだよ、黒子。よくこの合宿を無事に終えたものだな」
「死ぬかと思いました」
 黒子がまたハッ、ハッと苦しそうに呼吸をする。赤司には先輩たちをあまり待たせるわけにいかないからできるだけ早く帰ってこいと言われたものの、このままふたりの距離が開いて別に行動するようになってしまっては、このなんの意味もないようなふざけたイベントが、それこそまったく価値のないものになる。はあっ、と緑間は盛大にため息を吐き、ほんの少しだけ足の回転を弛めた。視界の端に黒子の空色の髪の毛が、ぴょこんぴょこんと揺れるのをようやく捉えられるようになった。
 しばらくそのまま並走したのち、緑間は思い出したように、顔は真っ直ぐに、言葉だけ投げかける。
「そう言うお前は、どうだったんだ」
「なにが、ですか?」
「調理実習なのだよ」
「ああ」
 黒子は必死に地面を蹴りながら、空を仰ぎ見た。一度どうにか呼吸を整えたかったらしい。そうして空を見上げたまま、胸いっぱいに春の凡庸とした空気を吸う。
「調理台の近くにずっといたんですけど、同じ調理グループの人たちがボクの存在を忘れてしまっていて、やっと気づいてもらえたときにはほとんど作業が終わっていました」
「やはり日常生活においては、お前のその影の薄さも考えものなのだよ」
 とは言うが彼のその個性は、まさに光を吸収して輝く宝だ。個性を生かすため、あらゆる努力を尽くし、自分だけの未知のバスケスタイルを作り上げたところも、緑間が黒子を、ともに戦うにふさわしい『仲間』と認めてやってもいいと思う所以だった。


 店内に入ると、買い物カゴを緑間が持って、黒子が食材を選んだ。野菜、肉の売り場と行って、最後に、市販のカレールーがずらりと並んだ陳列棚の前までやって来た。その種類の多いこと。
「皆さん、どれが好みなんでしょうか」
 そう言って黒子は辛口のカレールーを手に取る。背後に控えていた緑間は僅かに顔をしかめた。
 いつも緑間の家で母が作ってくれるカレーと言えば、甘口のものだった。それは、甘口以外、緑間の口には合わないからだ。
 しかし緑間は黒子にそのことを言い出せないでいる。このカレーを食べるのは、緑間だけではない。合宿の厳しい練習をこなして、つかの間の休息を心待ちにしている先輩や同級生の口に等しく入る代物だ。個人の我が儘を通してはいけない。
 それに、緑間の胸のうちにある幼い矜持が許すはずもない。カレーは甘口しか食べられない、そんな『子どもみたいなこと』をチームメイトの、自分より身体付きが細くて、体力のない同級生に、言うことが恥ずかしかった。それを恥ずかしく思う自分にすら緑間は戸惑った。心は、常に微妙な均衡を保って揺れた。
 黙ったままいると、振り返った黒子と目が合う。緑間は顔を反らした。その横顔に黒子の視線がじっと熱く注がれているのを自覚して、身じろぎする。
「もしかして緑間くんって辛いの苦手ですか?」
 密やかに渡された言葉は、けれども緑間のこめかみを強く殴りつけた。鼓動が早くなって、血が上って大きく開いた目で、黒子を見る。どうしてと問えず、冷たくなる唇を噛むと、黒子は安心してとなだめるように微笑する。
「ボク最近、人の表情とか仕種とかをよく観察しているんです。自分のバスケになにかを活かせないかなと思って。キミはさっきボクから視線を反らしたときにボクが手にしている辛口のこれを見てから、そこの甘口のルーを見たから」
 黒子が軽やかに、ふふっ、と笑った。
「ぜんぜん的外れだったらすみません。ボクの読みもまだ甘い。浮かれてられないですね」
 黒子はバスケのためだと言った。緑間が認めた、彼だけのバスケのために、尽くせる人事はすべて尽くすと言う。黒子はおそらく知っているのだろう。緑間が素直に言葉を発散させるのが苦手な子どもということを。大好きなバスケのためなら、簡単に口を開いてしまえることを。
「……苦手だ」
「はい」
「辛いのは、口に合わないのだよ」
 一度ぶっちゃけてしまったら、開き直りふんぞり返るくらいの気概は固まったが、やはり照れは押し殺せなくて、ぷいっと、また顔を背ける。
 すると黒子は馬鹿にするでも、笑うでもなく、手に持っていた辛口のカレールーを陳列棚の元の場所にちゃんと並べ直した。そしてしゃがみ込むと、リンゴと蜂蜜の描かれた、甘口のカレールーを緑間の持つ買い物カゴのなかにぽいぽいと放っていく。
「おい、黒子?」
「それじゃあ今日はもう甘口以外は売り切れだったと言いましょう」
「そんな訳あるはずがないだろう」
 当事者であるものの、黒子のきっぱりとした言い種に、緑間は呆れて息を吐き出す。
 黒子はパッと緑間を振り向いて、今度こそ、可笑しいことがあったみたいに笑った。
「こういうのはやったもん勝ちなんですよ」
 やったもん勝ち、いたずらっ子のような顔。なんだか黒子には似合わない気がしたけれど、それでいいような気もした。
 やったもん勝ち。正攻法ではなく誰も考えつかない、突飛なことを、実際に自分の力にしてしまった黒子が言うのは妙に説得力がある。だから緑間は、黒子の言葉に安心して納得し、パッケージに甘口と書かれたそれをカゴのなかに収めるのだ。


2020.04.22(ぼくたちは運命共同体だ)