テキスト | ナノ

 今日は帝光中バスケ部二軍と他校との練習試合のため、黒子は朝から隣町の中学を訪れていた。黒子は二軍に属さず、普段は一軍で活躍する選手であったが、『勝つこと』こそ、唯一絶対の理念とする帝光では保険として二軍三軍の試合でも一軍選手を数名同伴させる伝統があった。バスケの試合に出られるのは嬉しいし楽しいので、黒子は自分の持つすべての力と技でもっていつも通り全力で戦った。それに今日は青峰が、同じく一軍からの同伴として試合に参加している。相手選手を何人も隔てたコートの向こう側、彼の瞳だけが『影』である黒子の姿を映している。きらきらと輝く表情で、悪戯っぽく子どもみたいな顔で、パスを疑わずに求めている。
 楽しい!
 そんな思いの丈をありったけ込めて、黒子は目の前のバスケットボールを手のひらで強く強くタップした。


「今日も勝ったな、テツ!」
 茜差す歩道橋の上をふたり並んで歩き行く。いまだ興奮してはしゃぎ話す青峰の横顔が、オレンジ色に染まっている。溢れ出る喜びを分かち合おうとしてくれる青峰に、黒子も微笑して、はい、と返事をする。心なしか声が弾んだ。黒子だって試合の興奮がまだ冷めやらないでいた。
 青峰がシュートしたこと、黒子のパスのこと、相手にもなかなか骨のある面白い選手がいたこと、今日の試合で起こったすべてを頭のなかで巻き戻ししては、ふたりで共有し合う。そうやって歩道橋の階段を一番下まで降りきって、しばらく進んだところで青峰がコンビニを指差す。
「何か飲みもん買って乾杯しようぜ」
「そうですね」
 ふたりともこの上ないほど機嫌が良かった。
 コンビニに入って真っ直ぐにペットボトル飲料の陳列棚の方へ向かう。多くの種類を誇ってずらりと並ぶそこから、黒子は早々と舌に馴染んだスポーツドリンクを手に取る。ボトルの中で半透明な液体がちゃぷんっと音を立てて跳ねた。
「お前、またそれか。テツが飲んでるって言ったらバニラシェイクかそのスポドリしか見たことねえ」
「美味しいのが分かってますから」
「たまには冒険したりしねえの?」
 これとかと言って、青峰が手に取って掲げたのは期間限定で新発売と銘打ってある炭酸飲料だ。中身が揺れたことでたちまち小さな泡がポコポコと浮き上がったそれを見て、黒子はしぶしぶという様子で口を開いた。
「新しい味ってなかなか手が伸びないんですよね。それにボク、炭酸飲めないんです」
「はっ? マジかよ? なんで?」
「しゅわしゅわしたのが喉を通るのに違和感がぬぐえなくて」
「ふうん」
 そう短く感嘆したきり、青峰は自分の手の中にある炭酸飲料のペットボトルとにらめっこを始める。それからぼんやりと呟く。
「テツの苦手なもんとか、初めて知った」
 青峰が黒子の方を見て、にっと笑う。
「今日はなんもかもいい日だな」


 結局、黒子はいつものスポーツドリンクで、青峰は新発売の炭酸飲料を買って店を出た。
 店先でさっそくペットボトルの蓋をぐっと捻るとカチッと音がして次第に開口していく。耳のすぐ近くでは、ぷしゅうっ、と音がする。ん、とだけ言って青峰が開いたボトルをちょうど、黒子の目線と同じくらいになるように持ち上げる。黒子はそこに自分のボトルをぶつける。とんっと、ほとんど鈍い音がした。
 ひと口煽れば、知った甘さの乗った味が安心して喉を下りていく。バスケの試合後の高揚感から心は少し落ち着いて、ようやくホッと息を吐く。そんなときだ。
「ちょっとテツ、こっち来い」
 え、と口を開く間もなく、突然青峰に腕を引っ張られ、すぐ近くにあった人気のない脇道へ、身体を押し込められる。
「唐突にどうしたんですか、あ、」
 青峰くん、の、あ、で止まったのは黒子の口が塞がれてその先を言えなかったからだ。最初に感じたのは熱。ぐいっ、と、強引に口内を割って入ってきたのが人の舌だと黒子が気がつくまでには時間がかかった。腰を力強く引き寄せられ、顎を指で固定され、互いの体温が元々どんなだったかを忘れるほど近くで黒子の唇に青峰の唇が重なっていた。
 これは、キス?
 黒子が、頭のなかにそんな陳腐な疑問を浮かべるしかできずにいると、口腔にふわりと甘い香りが侵入する。生ぬるい液体が流れ込んできて、ピリピリと舌を刺激する。しゅわしゅわと口の粘膜に貼りつくその正体が何であるのか瞬時に理解した黒子は、青峰のジャージの裾を引っ張ってみたり、彼の胸板を弱々しく叩いたりしてみたが、掴まれた顎をさらに持ち上げられれば、その液体を溜飲するほかになかった。喉を懸命に鳴らしてそれを飲み込んだら、ようやく唇が開放される。
「ケホッ、こほっこほっ、なっ、何するんですか」
 咳き込みながら飲みきれなかったものが口の端から零れるのを自分の袖でぬぐう。
「炭酸は苦手だって、」
「わりい、イタズラ、したくなった」
 黒子がいまだ苦しそうにしているなか、青峰は、熱っぽさの残る甘く切ない顔をしていた。この雰囲気は知っている。彼の恋人になると決めた日から何度か味わったことのある空気だ。
 青峰と黒子がそういうことをする仲として付き合い出したのはまだ記憶に新しい。中学の同級生で、バスケ部の相棒で、男同士。でもそんなことは気にならないくらい青峰は黒子に触りたがったし、黒子も青峰に求められることが嬉しかった。お互いに力の加減が分からず、おずおずと抱き締め合ってみたり、唇の合わせ方や目を開けておくのか閉じておくのかさえよく分からないで、一瞬だけのキスをしてみたり。それもタイミングが掴めなくて片手で数えられるくらいしかしたことないけれど。
「イタズラしたくなったなんて口実だ。本当は、テツとまたちゅーしたいってずっと思ってた」
「突然すぎます」
「悪い。どうやったらテツを驚かせないでちゅーできるか考えてたんだけど我慢できなかった」
「舌も入ってましたし」
「やってみたかったんだよ! オレはテツ相手にならもっとエロいことも試してみたいって思ってる」
 もっとエロいこと。それをしたとき一体自分はどうなってしまうのだろうか、そう考えたら、カッと頬が熱くなる。おそるおそる盗み見た青峰の顔も赤くなっている。ふたりで顔を真っ赤っかにさせて、それが可笑しかったからふたりでくすくす笑った。
「なあ、テツ」
「はい」
「もっかいさっきの、やっていいか?」
「舌入れるやつですか?」
「そう」
 ちゃんと答えるのは恥ずかしかったから、黒子は俯いて、こくん、と首を小さく縦に振った。
 青峰の手のひらで右の頬を包まれ、上を向かせられる。考える暇もなく、噛みつくように唇を食べられる。口の先が濡れた感覚がしたと思えば、どうかなかに入れてくれと頼むみたいに下唇の真ん中を彼の舌がちろちろと舐めてくる。
 黒子は恥ずかしさを必死に、それはもう必死になりながらどうにか抑えて今度は自分から口を開く。ちょっと隙間を作っただけで、青峰の舌が嬉しさを伝えるように、すぐ黒子の口内へ割り入ってくる。小ぶりな口のなかを掬い取るように、擦るようにねぶられる度に、甘さが広がる。ぴりぴりと痺れるみたいな甘さだ。
 ちゅ、と音を鳴らして最後、唇は離れていった。抱き合ってくっついていた自分の薄っぺらい胸板がばくばく動くのを、硬直したまま感じ入る黒子に、青峰が大きな身体をすかさずもたれさせる。
「やっぱり今日はいい日だな。お前とバスケできてお前のことを前より知れてちゅーもできた。いまならオレ、無敵だ」
 本当に幸せそうに笑うのだ、青峰は。この笑顔のために、恥ずかしいのを我慢して応えることができた自分が誇らしかった。無敵になった彼に求められる自分も無敵になって、いまならどんなことでもできそうな気だってした。そんな幼い恋心を包むように、黒子は青峰の背中をぎゅっと強く抱き締めた。


2020.04.19(ちいさな恋のものがたり)