テキスト | ナノ

 昼ごはんを食べて、紬は午後から丞とふたりでストリートACTをしに外へ出かけた。今度、客演で参加する役がなかなかに面白いものらしく、それをもっと掴んでおきたいから付き合え、と言われた。紬も二つ返事で、いいよ、と頷いた。
 しこたまふたりで身を振り回して、言葉を繋ぎ、空高く声を上げ、周囲からたくさんの喝采をもらった。自分たちで作り上げた世界に、言葉に、夢に、少なからず心を動かしてくれた人がいるのだなと思うと、やはり誇らしくて嬉しかった。
 所属する劇団の寮へ帰る道すがら、あれを買いに行きたかったんだった、これを見ていこうよとしているうちに、もう日も落ちる頃合いになっていた。それにしては急に空が暗くなってしまった。灰色がかっていて、ときどき吹きつけてくる風も、どんよりと身体にまとわりついてくる。紬は思わず自分の両腕をさすっていた。
 その風に運ばれて、むわんと噎せ返るような匂いが近くまでやって来たかと思ったら、とうとう雨が降りだした。丞の手にも紬の手にも傘はなかった。
「こんなタイミングで降ってくると思わなかった。どこか雨宿りできそうなところまで走るぞ、紬」
「あっ、待ってよ丞、って、う、わっ!」
 無駄のない動きで走り出そうとする丞に、慌ててついて行こうとした紬の足が不器用にからまって、つんのめる。パッと前を向けば、丞が眉を寄せて、可哀想なものを見るような、呆れたような顔をしていた。気まずい感じがして、紬は口の端を引きつらせて、はは、と笑う。丞が、ため息を吐く。
「お前は相変わらず鈍臭すぎる」
 苦笑いと一緒にごめんと投げかけるはずだった言葉は、ほら、とすぐに差し出された大きな手によって未発車に終わった。大人の男性をそのままイメージさせるようなゴツゴツした手。
 まだ自分たちが幼かったとき、みんなの背中に追いつけなくて泣き出しそうになった河原で、ほんのちょっぴり自信がなくてなかなか出ていけなかったお遊戯会のステージの上で、いつも手を繋いで導いてくれたのと同じだ。なんの躊躇もなく向けられる手は、まぎれもなく、かっこよくてやさしいままの『たーちゃん』のものだった。
「ほら」
 また短く急かされ、紬はやっと丞の手を取った。ぎゅっと握った瞬間、ぐいんっ、と強い力で身体を引っ張られる。このままふたりでどこに行くのだろう? 紬の頭のなかにぼんやり浮き上がってきた疑問も、しかし意味はなかった。どこに行き着いたって恐くはない。どこへ行ったってそこはきっと楽しいばかりに決まっているのだ。


 丞の揺れる背中を見つめながら、流れる景色を気に留める暇もあらず、とにかく懸命に足を動かし続けた。こんなに頭を空っぽにして走ったのは、いつぶりだっただろうか。膝に手をついたままで、胸を上下させて必死に酸素を肺に取り込もうとするだけでむしろ息が詰まりそうになるが、あるときから呼吸がスッと楽になり、爽快感さえ生まれる。
 うな垂れていた身体をゆっくり起こすと、隣に並んだ丞が腕を組んで、空と睨み合っていた。古びたビルのちょっと出っ張った場所に、ふたりで肩を寄せる。常に身体のどこかしらがくっついている状態だが、ようやく見つけたところだったから、背に腹は代えられない。雨のせいなのか、人通りはあまりない。
 丞はしずかだ。紬もなにも言わなかった。ザアザアと、雨音だけがふたりの時間を、気遣うように埋めた。
 紬はふと自分の手をじーっと見下ろした。まだ、さっきまで繋いでいた丞の手のひらの感覚が残っている。分厚くて、力強くて、固かった。ひょろひょろに薄っぺらい自分のものとは大違い。
「ぼけっと手なんか見てどうしたんだ。まさかどっか痛めたのか?」
 丞が身体を窮屈そうに捩って紬の手首をつかむ。握られたところから彼の熱が伝わった。心地よかったけれど、心配をかけたままでは悪いから、紬は丞の手を傷つけないようにと、やわらかくほどいた。
「違うよ。ただ、久しぶりに丞と手を繋いで走ったなと思っただけ」
「手? 互いの手を触ることなんてめずらしいことないだろ。それこそセックスするとき、紬はいつも手を繋ぎたがる」
「そういう大人の不健全なほうじゃなくて。さっき走ってたときに、子ども頃、俺がもたもたしてると丞はいつも手を繋いで前を走ってくれてたなって思い出したんだよ」
「お前は昔から鈍臭かったから」
 丞がくつくつと唇を噛むようにして笑う。
「でも、そういうところが放っとけなかった」
 きっぱりそう言ってどこか遠くを見る丞の目には懐かしい面影が滲んでいた。きっと子どもだった小さな紬を探して、大人になったいまの紬を見据えている。記憶のなかに愛しさを色濃く孕んで。
 紬も丞に同調するように、そっと笑った。
 見つめてふたりで笑い合ったあと、ところで、と紬は言葉を繋ぐ。
「セックスするときに手を触られるのって気が散って嫌だったりする?」
「ああ、なんだ。さっきの、気にしたのか?」
 丞は声に出かけたその先を一度飲み込み、紬から顔をふと反らす。無防備になった耳の裏から首筋にかけて真っ赤だ。
 紬が丸っこい目をぱちくりさせて丞の横顔を穴が空きそうなほど見ていると、彼はいよいよ観念して真っ直ぐに言う。
「お前と手を繋いでいたら、どこにでも行ける気がして、気持ちがいい」
 丞も同じ気持ちだったんだと自覚すると、紬はとても嬉しかった。
 雨はまだポツポツ音を立てて降っている。けれどももうじき止む。根拠はなかった。けれど、この雨はもうじき止む。


2020.04.18(雨ふりの交響曲をふたり)