テキスト | ナノ

 金曜日。五日間の会社勤めという上級クエストから今週も無事に帰還する。精神というパラメーターが少なからず削られた状態ではあるが、明日からの休日、部屋に引きこもってゲームのコントローラーを握っていればそのうち回復する自分の安っぽい特性については把握済みだ。そんな企みを心のなかに密かに抱えた至が寮の門をくぐった頃、手にしたスマホのディスプレイには、すっかり土曜日の文字が浮き上がっていた。
 夜も更けているというのにリビングにはいまだ明かりが灯っている。まあ誰かがいたとしても自分の帰宅したことを血気盛んに騒ぎ立てるようなこともせず、いつもと変わらないテンションでドアノブを回す。部屋のなかにぬっと身体を入れ込んだ瞬間、中央に構えたソファーに腰かけた紬とバッチリ目が合う。真ん丸に開かれたターコイズブルーの瞳が、たちまち柔く形を変える。
「お帰りなさい、至くん。遅くまでお疲れさま」
 まるで焼き立てのスポンジケーキみたいな声だと思う。いつもと変わらないふにゃっとした紬の微笑に出迎えられて、ほんの少しだけ精神パラメーターが上昇したみたいだった。この劇団のなかでなら、気を張らないで良いところが至にとっては最高だ。
「紬、ただいま。そっちこそこんな遅くまでリビングにいるの珍しくない?」
 そう言いながら紬の座るソファーの空いたところにビジネスバッグを落ち着ける。ついでにその手元を覗き込んだら、彼は机の上に散らばるプリントをまとめている途中のようだった。数字や英字の羅列された紙を見て、至はすぐにピンと来た。
「ああ、またMANKAI塾開いてたんだ」
「正解。高校生組が週明けからテストなんだって」
「月岡先生の授業はそれは繁盛したことだろうね」
「おかげさまでね」
 ふふ、と紬が擽ったそうに肩をすくませて笑う。至はその背後に立ったまま、ソファーの背もたれに両手を預けると、飄々とした様子で言う。
「それで子どもたちはもう寝たの?」
 紬が顔だけ振り向いて続ける。
「まるでお父さんみたいなセリフだ」
「それなら紬は、ちょっとおつむの出来は悪いけど可愛くてしょうがない息子たちを持つお母さんと、仕事熱心な夫を献身的に支える奥さんってわけだ」
 ふふ、と紬がまた笑う。かき集めたプリントの端をトントンと軽く正して、そしてすっと立ち上がってちょっと伸びをすると、キッチンのほうに爪先を向けた。
「それじゃあ献身的な妻は仕事で疲れて帰ってきた旦那さんのためにいまからコーヒーでも淹れましょうかしら」
 すっかりちょっとおつむの出来は悪いけど可愛くてしょうがない息子たちを持つお母さんと、仕事熱心な夫を献身的に支える奥さんの役に入り込んでいる紬は、楽しげだ。その空気に、至も経験したことない自分以外の他の『誰か』に浸るのがいつの間にか心地よくなった。また精神パラメーターが上昇する気がした。
「あっ、本当にコーヒー淹れるけど至くんも同じで良かったのかな?」
 素に戻った紬が、キッチンの奥で問いながらマグカップをカチャカチャ音を立てて取り出している。
「うん、せっかくだから一緒にもらおうかな」
 そう答えながら、至は頭のなかで明日の予定を計算していた。特別走りたいゲームのイベントもないし、さっきのやり取りでずいぶんと精神のパラメーターを回復してもらったみたいなので、少しだけなら、ちょっとおつむの出来は悪いけど可愛くてしょうがない息子たちの勉強に付き合っても良いかな、と。


2020.04.17(すっかりほだされている)