テキスト | ナノ

 小説を読む黒子の隣で、黄瀬がふんふんと鼻を鳴らす。べつに鼻息が荒いわけではない。それは、不透明な音程を保ってしきりに紡がれる。黒子がなにも言わないでじっと黄瀬の横顔を眺めていると、彼は、あ、という顔をして、「これ、最近テレビのコマーシャルで流れてる曲で癖になっちゃったんスよね、鼻唄」と言って、最後は悪戯っぽく笑った。
 誠凛高校の教室の、黒子はちょうど窓際の席で机に片ひじついて外をぼうっと見ていた。堅苦しい授業と授業の合間、ほんの少しの休息に、開け放たれた窓から入ってくる風もカーテンを揺らして遊んでいる。そんな可憐な景色を目の前にぼんやりしていたら、「おい黒子」と呼びかけられる。視線だけをちょっとやれば、火神がなにかの不可思議な怪奇現象にでも遭遇したような顔をしている。黒子と前後の席に並んだそのクラスメイトは、まだ微妙な顔をしながらこう言った。
「お前が鼻唄なんて、珍しいこともあるもんだ。それって最近テレビのコマーシャルで嫌ってくらい流れてる曲だろ?」
 そこで黒子は初めて自分が、あの日の黄瀬と同じように旋律を辿っていたことに気がついた。すると突然、爪の先から頭のてっぺんまでぞわぞわと恥ずかしさが駆け上がっていった。こうも簡単に影響されてしまうほど、自分は黄瀬の隣にいることに安心して、信頼し切ってしまって、無意識まで侵されるようになったのかと。
 なにも知らない火神は、今日の快晴のようにからりと笑った。
「あんまりよく聞くから癖になっちまったのかよ」
「そう、みたいです」
 黒子は衝撃を受けて少しの間目をぱちくりさせていたが、なんだか可笑しくなって、ふふっ、と微笑すると、また片ひじついて窓の外を見やる。その瞳の先は、目に飛び込む景色よりも、もっとずっと遠くのほうを映しているようだった。


2020.04.16(あの日のうたがきこえる)