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この話の続き


 その日は水曜日で、午後八時、黒子が勤務先から某駅前へ到着すると、仕事を終えた人たちで多く溢れていた。その隙間をひとり静かに縫って歩いて、黒子が足を止めたのは一軒の居酒屋だった。千本格子の片引き戸をカラカラと小気味の良い音を鳴らして開くと、黒子は藍染めの暖簾をひょいとくぐって入店する。ガヤガヤと賑わっているようだ。大いに結構だが、一向に店員に声を掛けられない。それも仕方ない。きっと店員が悪いわけではない。黒子の影が普通とは薄すぎるのだ。だから黒子も特に何とも思わず、自分から、あの、と呼び止めて、突如として存在の浮かび上がった人物に店員は驚いていたが、無事に目的の人の場所まで案内を得た。
 その居酒屋ではスペースごとに板で仕切られており、また簾を下ろして個室にすることもできるようだ。その一室に高尾はいた。
「待ってたぜ、黒子」
「どうも」
 彼がニッと口端を持ち上げるのに軽く会釈して、黒子は高尾のちょうど目の前に腰を下ろす。黒子が突然現れても高尾がさっきの店員と同じように驚かないのは、彼が俯瞰的視野の持ち主であるからに間違いない。高校時代、部活の関係で知り合ってから現在まで変わらない、互いに認める個性だ。
 間もなく高尾が口を開く。
「て言うか真ちゃんは? お前ら、近くの駅で待ち合わせて一緒に来るって話じゃなかったっけ?」
 と、今日もうひとり来るはずの男の顔を思い浮かべた。スッと輪郭の通って、長い下睫毛が特徴で、そのまましていれば眼鏡をかけた美人の顔なのに、むすっと眉間に皺を寄せて、小さな事柄にも常に難しそうにしているのが緑間真太郎という男だった。高尾と緑間は高校の、黒子と彼は中学の同級生だ。
「緑間くん、どうしても今日終わらせないといけない仕事ができたので来られなくなったそうです」
「お、マジか」
「すみません」
「べつに黒子が謝ることじゃねえだろ」
 高尾はけらけらけらと明るく笑って見せ、さっそくドリンクメニューをテーブル上に広げた。
「まあせっかく来たんだから飲もうぜ」
 それから適度にアルコールを身体に摂取したふたりは、高校生だった頃の昔話に花を咲かせたり現在の仕事のことだったり軽快に話題を変えた。主に高尾が酒を飲んでは話をして、それに黒子が塩キャベツをぱりぱりとつまみながら相づちを打つ。そして彼らが最後に到達したのは、緑間と黒子の、ふたりの生活について。
「で、最近どうなのよ?」
「どうとは」
 高尾が今日一番ぐらい顔をにやつかせる。黒子は他人事かのように聞き返す。ではなぜ彼らの反応がこのようであるかと言うと、それは、緑間と黒子が高校からの恋仲であるからだと予想される。つまり黒子のほうはただ単に照れているのである。
「勿体ぶんなよ。相変わらずラブラブなんだろ?」
 黒子は黙したままグラスをぐいと呷った。
 良い年した男に対しての言葉にはきっと似つかわしくないかもしれないが、高尾には、黒子のその様子が可愛らしく微笑ましく見えたような気がした。それは久しぶりの心持ちを彼に回顧させた。
「オレは羨ましかったぜ、お前らが。て言うかぶっちゃけた話、お前の隣に並んでいられるアイツが」
 高尾がロウソクをそっと灯すように口火を切る。えっ、と黒子は目を丸くしかけたが、ふたりの間に流れる静かな空気がピンと張り詰めたものでなく、極々緩やかなのを知ると、自然に肩の力を抜いた。そして高尾の顔を真っ直ぐ見つめた。高尾はいつもと変わらずいまにも軽口叩きそうな笑みを浮かべてテーブルに片肘をついて、少し上目遣いするように素直な視線を向けてくる。
「言っちまえばオレ、黒子のこと好きだったんだ。なに、高校生だった頃だけの話だよ。だからってアイツが嫉妬で憎いとかお前を奪ってやろうなんてこれっぽちも考えなかった。それくらいのことだよ。いまはとっくに時効、だ」
 だろ? と言って高尾が何やら自信のある様子で笑う。黒子はその言葉を正面から受け止め、手にしていた箸を空いた小鉢の上にカランと置き、それから美しく微笑した。ふたりは目と目で通じ合った。
 ふと高尾が自分のグラスを手に取り、なかで揺れる氷に目を落とす。
「でも真ちゃんには内緒な」
「どうしてか、聞いてもいいですか?」
「オレがお前を好きだったことを他の誰に話しても後悔しねえし、お前自身に言ったってひとつも恥ずかしいことはない。オレの誇りだった。それでも、たったひとつだけ決めてたことがある。それが緑間には言わないこと。卑怯とか意地っ張りとかそういうんじゃねえんだ。理屈じゃないから、アイツとの関係は」
 そこまでひと息で言い、高尾はグラスに残る酒を一気に飲み干した。黒子は目を閉じた。楽しいことも辛いことも、一日一日を濃密に重ねて過ごした。それは黒子が帝光中あるいは誠凛高校で『相棒』と呼べる人を得て大好きなバスケを飽かず追求したのと同じように、緑間と高尾も多くの時間を一緒にしたはずだった。どれだけ年月を経ても、自分たちにとっては決して消え失せることのない宝物なのだ。
 黒子が空色の瞳をそっと開く。
「内緒、ですね」
 擽ったそうに内緒と言葉をなぞった黒子の声は、ガヤガヤと慌ただしい居酒屋の活気のなかへと溶け込んでいった。


2019.08.09(さよなら青春また来てね)