テキスト | ナノ

 その日の夜、丞が外での用事を済ませて寮の玄関に入るや否や、リビングから、きゃっきゃっ、と炭酸水が口のなかで弾けるような賑やかな声が聞こえてきた。いったい何事かと少し躊躇いながらドアを開ける。最初に見えたのは夏組の三好一成や向坂椋のわらわらと揺れる後頭部で、輪の内側には幸や東の姿まであり、その一番奥深くにはこの劇団の舞台メイクを一手に担う泉田莇と、まるで借りてきた猫のように肩を小さくしてソファーに腰をうずめる紬がいた。どうやらまたメイクの練習台にされているらしい。一瞬だけ目が合うと、紬は丞にだけ分かるようにちょっとだけ困ったみたいに微笑する。
「丞さん、お帰りなさい」
「伏見か」
 鳴りやまない歓声のなかで、唯一丞を出迎えてくれた臣に、ただいま、と応え、目配せをした。
「莇の奴、新しい化粧品が手に入ったとかですっかり張り切っちまって、紬さん、さっきからそれに根気強く付き合ってくれてるんです」
 朗らかに臣が笑う隣で丞は、エネルギーのわいわいと溢れるその一角を元気なものだと眺めた。
「そういえば丞さん、晩飯はどうしますか?」
「ああ、外で食ってきた。いつも悪いな」
「いえ、俺は好きでやってるんで」
 それから臣は再びキッチンへ戻っていった。彼が洗い物の食器を、かちゃん、かちゃん、と扱う小気味の良い音を耳にしながら、丞はダイニングテーブルの椅子にひとり腰かけた。机に片肘ついて、ただただ輪の様子を眺めるのみ。
 紬の、肉薄で、少しだけカサッとした頬が、普段とは徐々に色を変えていく。白から朱へ彩る。睫毛のカールした目元は紬の丸っこい瞳を、さらに際立たせた。
 そんな様子を見ていると、目の前のテーブルの上に突然、ゴトンッとなにかが置かれた。視線を引き戻せば、日本酒瓶とお猪口がふたり分。その先には反対側の椅子に座りかける左京がいた。
「左京さん」
「よお、高遠、一杯どうだ? ほかに客も来そうにねえし、今日だけ特別に上手い酒奢ってやる」
 このような晩酌を最も好むのは東で、付き合い上手な一成もその常連だった。しかしふたりともいまは別のことに夢中なようで、しかも左京から酒飲みに誘われるなどめずらしい。
「じゃあ一杯だけいただきます」
 そうやって丞が差し向けられたお猪口を手に取ると、左京はほどなく黙って瓶を傾けた。さっそく口に含めば舌を焦がす辛味がじんわりと溶けて染み入る。うまい。久しぶりの触感を脳が素直に受け入れる。酒の味に浸っていると、「すまねえな」、左京がお猪口にひとつ口をつけ、柔らかくて低い声音で呟きをぽそりと落下させた。
「えっ、」
「坊が月岡にすっかり世話かけちまってて」
「ああ、それだったらたぶん大丈夫なんじゃないですかね。あいつはああやって人のためになにかやることが、きっと苦じゃないから」
「そうか」
 左京は短く息を漏らしてふっと笑ったあと、もう話すことなく静かに酒を仰ぎはじめた。丞も同様に一杯のそれを全部飲み干す。それから、他人にやさしくて、いつも誰かの気持ちを考えて、大切にして気遣い、けれども変なところで頑固で、ちょっとだけ自分に自信が持てなくて、芝居に真っ直ぐなそんな月岡紬が好きだと思った。丞の胸のなかでふわふわと形なく芽生えたそれは、やがて緩やかに渦を巻いて綺麗な丸を作ると腹の底までゆっくりと下りていった。丞の身体のなかで鳴りを潜めて沈んだその塊から、手足の爪先までぽかぽかと温まっていく。
 莇が紬の頬に手を添える。彼の握るルージュが紬の唇を真っ赤に染めていく。その唇にキスしたいと思った。


2019.07.16(頬紅を挿して虹を越えて)