テキスト | ナノ

 火神が目を覚ましたのは午前六時のことだった。最近、日の出るのがだんだん早くなってきた、とは言え、部屋の空気はひやりとしてまだまだ肌寒い。ブランケットの隙間から、冷気が染み入って、そっと背中を撫で去ってゆく。思わず身体が震え、いっそのこともう一度眠りの底に落ちてしまえと、肩までふとんを引っ張り上げながら、ごろんと寝返りを打つ。何しろ今日は、久しぶりに何の予定もない休日だ。
 アメリカでバスケをプレイするようになり、もうどれだけの時間が経つか。いまでも日本での、誠凛高校のかけがえのない仲間やライバルたちと、熱く戦った日々を、夢に見る。彼らの顔をひとつひとつ思い起こすと、昨日までのハードな練習の疲れも忘れて、バスケがしたいとじきに腕がうずうずする。
 そうしているうち、目が冴えてくる。奪われた熱を取り戻したように、身体に力が漲る。ついさっき寝ぼけ眼だった目を、スッとひらける。火神の視界へ一番に入ったのは、氷室辰也の寝入る顔だった。
 高校を卒業すると、大学はアメリカのほうで入学した。氷室はこの米国でやりたいことが見つかったのだと言っていたが、火神がそのことを真剣に聞いても、いまだに氷室が何について勉強しているのか理解するのに困った。そのたびに可笑しそうにクスクス笑われたけれど、火神は氷室の笑った顔が幼く可愛らしくも見えて、気に入っていた。ふたり笑い合い、同じ部屋に暮らす初めての冬だ。
 火神は氷室の髪に、指の先をちょっと滑らせる。さらりとした心地で流れる前髪の下に、まだ血色のない、柔らかそうなまぶたを見つける。ちょうど、昨日、氷室が寄こしたマシュマロみたいだと火神は思う。大学の同じ学科の女生徒にもらったそうだ。ことバスケ以外では、どちらとも他人には無頓着である。それを舌の上に乗せたときから、口のなか全体に甘さがじゅわりと溶けていったのを思い出し、ツバが溢れ出るのを静かに飲み下した。いけない。いますぐ噛みつきたい衝動を、ダメだ、と顔に熱を溜めながら自重する。
 火神は自分を誤魔化すことに気をつけていないといけなかったけれど、氷室の髪を撫でることはやめない。触れていると、さらさら流れて火神の指の腹を面白いほど擽った。悪戯され、なお眠り続ける氷室が、可笑しいのと可愛いのと、半分の気持ちで、やっぱりマシュマロみたいなこのまぶたにキスしたいと思ったそのとき。
「Hi , Taiga . That tickles . Stop it , right ?」
 とつぜんぱちりと目がひらき、氷室の、薄く色づいた唇がつらつら言葉を並べる。寝起きた瞬間から潤っていく濃茶色の瞳に見つめられると、火神の心臓は、否応なく鼓動を加速する。それはいつも苦しいくらいだったけど、火神はその感覚が、嫌いではない。氷室を思って跳ねるそれこそが自分の生きていることの証になる。
 と言ってもいまは、目は口ほどに物を言うかのように、こっちをじいっと静かに覗いてくる氷室に、火神は眉を垂れ下げ、言葉を詰まらせるほかない。
「Uh , Sorry , my bad .」
 するとすぐに、堅結びしたリボンがほぐされるように、氷室の表情がそっと綻ぶ。
「I forgive you . ところでずいぶんと早起きだね、タイガ。今日はオフだからゆっくりするって言ってなかったかい?」
「そうなんだけどさ、なんか目が覚めちまって」
「それで、オレで遊んでたの?」
「悪かったよ」
 謝りながら、火神はついに氷室のまぶたにキスする。上唇と下唇で食むように口づける。歯で傷をつけないように細心の注意を払いながら、まぶたの形に沿ってゆっくり動かしていく。思った通り柔らかで、本当に甘いような気もする。少しでも強くすればたちまち破れてしまいそうで、火神は夢中になった。それに対して氷室は首をすくめた。
「んんっ、タイガってば、ふふっ」
「なに笑ってんだよ」
「いいや、ただ、お前の鬚がざらざらしてて」
 氷室が目を細めながら、火神の顎の辺りを見る。自分の手で触れてみれば、たしかに細かい凹凸が皮膚を覆っている。ざらざらとした手触りはそこそこに鋭くて、自分にとっては毎朝の慣れた感触だが、もしかしたらそれが氷室の色白の頬を引っ掻いてしまっていたかもしれない。火神は慌てて氷室の顔を覗き込む。
「わりぃ、痛かったか?」
「違うよ。面白いなって、なんだか癖になりそう」
 そう言って氷室が火神の頬へ自分の頬をぴたりと押し当ててくる。新しいオモチャを手にした子どもみたいに、飽きもせず、何度も何度も摺り寄せてくる。火神が逃げようとしたところで、太股にするりと脚をからめ迫ってくる。
「おいっ、こら、擽ってえよ」
「ははっ、さっきのイタズラのお返しだよ」
「こいつ……!」
「あッ」
 瞬間、火神はくるりと身を翻した。視界が一転、氷室の身体を下にして覆いかぶさる。からんでいた脚はより複雑に重なり合う。突然の出来事に、ベッドも驚いたみたいにギィッギィッと素っ頓狂な音を上げた。
 腕を取り、シーツに深く押さえつけ、上から見下ろす氷室の姿はとても無防備だった。平らにひらかれた胸板が、ゆっくりと規則正しく上下する。部屋のなかに微かに巻き起こった軽風が花の香りを連れてきた。これはシャンプーの匂いだ。
 自由を奪われた氷室は、しかしその表情に恐怖などない。余裕のある笑みさえ浮かぶ。余裕がないのはむしろ自分のほうだと、火神は自覚していた。
「タイガ、まだ太陽も昇ってきたばかりだよ」
「……ダメか?」
「今日はゆっくり休むって言ってたのに」
「関係ねえよ、もう、そんなの」
 その言葉を最後に、氷室の唇を口づけて塞ぐ。また、花の香りがする。これは何の匂いだったか。ああ、シャンプーだな。


 セックスをしてふたりでベッドから抜け出す頃には、時計の針はもうとっくに正午を回っていた。こんなにだらけ切った休日は何年振りかと久しい。休みの日の午前中とはあっという間に消費されるものであるということは、およその人類に理解できることだろう。洗面台の鏡の前で佇み、後悔のような、いやいや、いっそ清々しい気持である自分の顔つきを、火神はぼんやりと眺めた。
 顎には、やはりちょびちょびと鬚が生えていた。それをひと撫でして、火神は毎日のルーティンに取りかかる。
 ちょうどそのとき、背後で浴室のドアがガチャンとひらき、もくもくと立ち昇る湯気とともに氷室が出てきた。腰にバスタオルを巻き、重たそうに濡れそぼった黒髪からは、まだ水滴がしたたっている。剥き出しの肩は血色づいてピンク味を帯び、扇情的で、目には毒にしかならない。鏡越しに氷室の姿を見ていた火神は、小さく溜息を吐くほかなかった。
「ああ、なんだ、タイガ」
「あ?」
 パンツとジーンズを手早く穿いた氷室が目尻を下げ、本当にほんの少しだけ残念そうな声を上げる。
「剃ってしまったのか、鬚」
「いつものことだろ」
「お前にとったらそんなものかもしれないけれど、オレにはめずらしいものだから」
「あー、タツヤは体毛薄いしな」
 そんな他愛ない話をしながら、氷室が火神のほうへ静かに近寄ってくる。火神は洗面台のふちへ軽く腰をかけて向かい合う。氷室のすべすべときめ細かい頬が、今度はなんの抵抗もなく火神の頬をするりと撫で下りる。
「こら、擽ってえよ」
「なら、またキスしてみるか?」
「お前なあ」
 そう呆れながらも、火神は氷室のか細い腰を力強く手繰り寄せ、愛も欲もすべてを飲み込むようにキスをするのだ。


2018.05.03(マシュマロにキスをして)