テキスト | ナノ

 彼の指先が動く様を、緑間はぼんやり眺める。握られたシャーペンが白い紙の上に文字をさらさらと創り出していく光景は、笑い転げるほど愉快なものでないが、不思議と気持ちの安らぐものだった。物事に没頭し続けて凝り固まった頭がほぐれていくのを感じる。
 けれどふとした瞬間、ペンの動きが止まった。それまで当然のようにあったものが、いきなり目の前から消えてしまうかの、不安定さに突き当たる。緑間はほとんど反射的に、ピンと弾かれるみたいに顔を上げた。
 その先に見えたのは、柔らかい空色をした瞳。細められてゆるく垂れ下がった目は、こっちを見て笑んでいた。
 そうしてはじめて緑間の眼中に、静けさのなかにわずかな騒がしさの混じった背景が飛び込んだ。まるで過去から未来へ一瞬にしてタイムスリップをしたようだ。急に背中のむず痒さが気になり出す。
 眼前に広がったのは、本のぎしりと詰まった背の低い本棚。その上には窓があって、清潔な白い色のレースカーテンの向こうから西日が差している。
 その赤黄色の淡い光を背負って、黒子テツヤが笑んでいた。その景色が、緑間には、何か手に届かないような神々しいもののように思えてならない。
「すこし、疲れてしまいましたね」
 しんと澄んだ声音が、緑間を現実へ引き戻す。黒子は周囲を気にするふうにちょっとだけ肩をすぼめて言った。
「このくらいで音を上げていては、先が思いやられるのだよ」
 腕を組み、突き放すような物言いをする。本当はそんなことを言いたいわけではないくせに、無愛想な言葉しか出てこない自分の口が憎らしい。どうして素直に黒子の苦心を労ってやれないのか、そのことで彼の機嫌を損ねないか、緑間は恐ろしくて仕方なかった。しかし、黒子の表情は穏やかだ。
「キミは頭のいい人だから」
「何が言いたい?」
「今日、一緒に来られてよかったと思ったんです」
 いま、緑間と黒子は市の図書館内にいる。十月も半ばで、この先に控える中間試験の勉強のために来ていた。テスト期間で部活の休みになった放課後にそれぞれが待ち合わせたのだ。
 緑間は黒子から、この図書館に誘われた。事前に「ボクに勉強を教えてくれませんか」というメールを受け取っていた。緑間は、他人に頼っているようでどうするのだよ、とメール画面に打ったあとに、「お前がそこまで言うのなら教えてやらんこともない」と十分くらいかけてようやく返信した。
 表と裏を逆に着てしまった洋服のような返事をしておきながら、緑間の心は高揚した。黒子が自分を頼ったことに対して優越感に浸った。なによりも、自分と彼が恋仲である自信を保てた。それは緑間にとって、とても重大なことだ。
 瞬間、ブーッブーッと何か小刻みに振動する音が響いた。人の軽微な動きのはしで静けさの広がる館内では、些細な物音でさえ耳に残る。
 どうやら黒子も、緑間と同じように思い当たったようだ。制服のポケットをこそこそと探り、彼はスマホを取り出した。コンパクトな電子機器を両手でそっと包み込んで、滑らかな手つきでそれを操作する。緑間はその様子を見つめていた。
 やがて黒子の指先が動きを止めた。次いで目をぱちくりと丸くする。いったい何事であるのか緑間は気になったが、素直に「気になる」と言い出すことができないのが彼の性分だ。苦し紛れに少々遠慮した咳払いをひとつしてみる。
「ああ、すみません」
 黒子は顔を上げて緑間のほうへ短く謝ると、もう一度スマホの画面に視線を落とした。何か困っているような雰囲気だ。緑間はとうとう口を開いた。
「何なのだよ」
「えっ」
「言っておくが誤魔化しは効かんぞ。それが、気懸りなのだろう」
 それ、と言いながら、緑間は黒子のスマホへ目配せした。黒子は眉根をきゅっと寄せ、自分の手のなかにあるスマホと緑間の顔とを見た。言うか言うまいか迷う様子をした末、黒子はスマホを緑間に差し出した。
「気懸りというほどのことでもないですけど、黄瀬くんからです」
 素直に手を伸ばし受け取ったそれに記されたのはこうだ。
『ねえねえ黒子っち! 黒子っちの学校もテスト終わるの月曜っスよね? そのあと部活もないってこの前に言ってたし、もしよかったらふたりでどっか遊びに行かない?』
 黒子の言葉通り、メールの差出人は黄瀬だ。駆け引きもへったくれもない短絡的な誘い文句だ。友人が友人へ送るのに、何ら問題ないものだろう。
 しかし緑間の心は次第に忙しなく騒ぎだす。それまで波ひとつなかった大海原に嫌な風が吹き始め、それは海の上でどんどんと膨らみ、やがてどうしようもないほどの嵐を連れて世界を喰らいゆく。
「緑間くん?」
 黒子の呼びかけにハッとする。案じるように見つめられ、緑間はとっさにそっぽを向いていた。
「ふん、テストが終わるのを待たずしてその後のことばかり気にしているとは本末転倒なのだよ、黄瀬の奴め。だいたい黒子、勉強を教えてほしいと人を呼び出しておいて携帯をいじるなんて非常識じゃないのか」
 そこまで息を吐く間もわずか、一気に捲し立ててちらりと黒子の様子を見やった。普段から、細く、強引に抱けばすぐに折れてしまいそうなくらい小さな肩が、どこか遠い場所に置き去られたように小さく映る。
「キミの言う通りです、すみません」
「違う!」
 緑間はほとんど叫びながら立ち上がった。勢いよく蹴り飛ばされた椅子がギィッと断末魔みたいな音を立て、館内の静寂を狂わせる。その平淡さに身を置いた人たちの視線がいっせいに振り向く。
 騒然と湧き立つ空気のなかで、ただひとり黒子だけが冷静な顔をして座っている。緑間は安易に場を乱した申し訳なさにうつむいた。
「……その、悪かったのだよ」
「ほんとうにキミの言う通りなんですから、気にしないでください。それより緑間くん、続き、教えてもらえますか?」
 黒子が微笑む。陽だまりで秘かに綻ぶ花のような微笑は、それだけで彼の心をくつろがせる。緑間は「ああ」とだけ短く答えてようやく座った。
 互いの課題が一段落した頃、まもなく閉館を告げる放送が流れた。緑間と黒子はお疲れさまとかもうそんな時間かとか言葉少なに交わしながら片づけ始めると、すぐに席を立った。そのとき、黒子がスマホをちょっといじっていた。
 ふたりで図書館の玄関口へ向かう間、緑間くんと隣の黒子に呼びかけられる。緑間が「なんだ」と返したら、黒子は手にしたスマホをふたたび彼に寄こそうとしているようだった。
「またか」
 口を自然と流れ落ちるつぶやき声は、自分でも驚くほどに苛立って聞こえた。これのせいで緑間が黒子を傷つけてしまったのは、ついさっきのことだ。また変なことを言い黒子を困らせるのではないか、その思いばかりが緑間の内心をささくれ立たせる。
 微かな唇の震えを抑制し、緑間は黒子が向けるそれを受け取った。画面に映るのは黄瀬への返信だ。
『せっかくのお誘いですが、すみません。その日は緑間くんと約束していますので』
 スマホを透けた向こうで、黒子が下から覗き込むようにして緑間の様子をうかがっていた。
「黒子……」
「ということなのでテストのあと会えませんか?」
 訊かれれば、緑間はあっさりと答える。
「お前を不正直者にするわけにはいかないからな」
「ありがとうございます、緑間くん」
 黒子の表情がパアッと明るく華やぐのを認めて、緑間の顔も知らずにうっすらと弛緩する。それから受付の女性職員があわただしく動き出すのを視界の端にとらえて、彼らは図書館を後にした。
 外はまさに夕焼けと言うにふさわしく、赤に近い橙色に背を向ける建物や木々のすべてが、黒の画用紙をその形に切り取ってそのまま貼りつけられたみたいな景色だ。秋の匂いが濃い。
 緑間と黒子は大通りへ出ると、それぞれの帰路に別れてついた。今日はありがとうございました、と丁寧に頭を下げたあと、黒子は賑わう人混みのなかに身を投じる。緑間は、他人より影の薄い彼の、群衆の波にのまれていく背中を見失うまでそこに立ち尽くしていた。やがて息を吐き、踵を返す。
 ひとりになった足取りは何とも重かった。考えるのは、自身と、黒子のこと。
 黒子テツヤという人間は、もとよりマイペースで頑固な性格だ。おまけに自分の影の薄さを生かした唯一無二のバスケスタイルを極めるために、彼は滅多なことで表情を変えない。何を考えているのか分からないのだ、とむかしの緑間であったら頭を悩ませることなく、我関せずを貫いたのだろう。そのことに苛立って、直接当たり、ケンカもした。しかしいまとなって、あれほど情の深い男を緑間は知らない。黒子と身も心も重ねれば重ねるほどに、彼の勇気、やさしさ、そして愛にどんどん触れた。緑間はそんな懐の深い黒子に惹かれて止まらない。
 比べて自分はどうだ? 緑間は苦心する。周りの人間からは融通が利かないとよく言われた。百九十センチを超える長身の男に、可愛らしい愛嬌などあるはずもない。口が上手くないのもまずい。きつい言葉でいつも傷つけてしまっていると思う。さっきだって嫉妬したことを素直に言えなかった。黒子の前では格好良くありたいが、嫉妬だなんて醜い感情にどうしようもなく心揺さぶられる自分を、彼は幻滅するだろう。



 高校の中間試験は三日に分けて行われた。最終科目をふたつと残した今日も、昼前には机にペンを置き、何ごとも滞りなく学校を解散となった。
 緑間が教室を後にする際、部活のチームメイトである高尾に「そんなに急いで帰っちまって、さてはデートの約束があったりして?」と悪戯に唆されたが、それを相手にしている時間さえ彼には惜しかっ
た。あの約束が、たまらなく緑間を急かす。高尾の言うこともあながち間違ってはいなかった。緑間はほとんど引ったくるように鞄を手に取って、瞬きする間に駆け出していった。
 彼の通う秀徳高校から誠凛高校までの道のりは、長いようで短く、または短いようで長くも感じた。
 校門の前で緑間はさっそく火神大我を発見した。ぎらぎらと目立つ赤髪が一番に見えてしまったことに顔を顰めつつ、他の誠凛バスケ部一年メンバーも揃っていたので、尋ね人である黒子もその輪のどこかにいるだろうと考える。火神と顔を合わせることは少々意にそぐわないが、そういっても仕方なし、緑間の足がそこに向いた。そのとき。
 火神の影から、思いもよらなかった人物が緑間の前にとつぜん姿を現した。まだ頭上に高い太陽光に色素の濃い黄色い髪をきらめかせて、小さい子どもがはしゃぐみたいに笑う、黄瀬の姿。火神と並んで劣らない長身に、すっとバランス良く伸びる手足。ひと度認めれば、いっきに存在感を放ちはじめる。その男がふと緑間のほうを振り向く。
「あーっ! 緑間っち!」
 飛び上がる勢いではち切れそうなほどことさらに笑顔を深くして、黄瀬が手を挙げる。火神も含め、その注目がいっせいに緑間へ集まる。悪いことをしたわけでないが、居心地が悪くなる。とたんに背筋がムズムズする。針のむしろに立たされた気分だ。
「久しぶりっス」
 それでも黄瀬はかまうことなしに、緑間を輪に引き込もうとする。緑間は喉が渇くのを感じながら、ようやく話した。
「なぜお前がここにいるのだよ、黄瀬」
「いやあ、じつは今日、黒子っちに学校終わりに遊ばないって連絡してたんスけど、そしたら緑間っちと会う約束があるって言うじゃないっスか! そんで緑間っちと黒子っちがふたりで会うなんていったいどんな用事なのかめっちゃ気になっちゃったから聞いたんスよね」
 黄瀬がぐるんと身体ごと回って、背後を見返る。するとそこからスーッと浮かび出てくるように黒子が顔を覗かせた。眉尻がしおらしく下がっている。
「……本を一冊、貸してもらうと」
 黒子は指先で自分の頬を二度くらい触りながら、小さく口を開く。それにかぶせて、黄瀬がウインクを投げて寄こす。
「だったらふたりの用事が済んだあとにみんなで遊べないかなって、サプライズで来たってわけっス。誠凛には火神っちもいることだし」
「ああ? オレも巻き込む気かよ」
「えーっ、そんなつれないこと言わずにさあ!」
 黄瀬が泣き真似なんかをして火神の耳元でわあわあと騒ぎ立てる。
「うぜえよ!! 人の耳の近くで大声出すな!」
「じゃあ、じゃあ、わかった! この面子でバスケするってなったらどうっスか?」
「うっ……」
 したり顔で言い放たれた黄瀬の提案に、それまで吠えかかっていた火神がふいに言葉を詰まらせる。『バスケ』という単語に、ほとほと弱い男である。それにいまは黒子や誠凛の面々に加えて、黄瀬と緑間のオマケつき。中学時代から天才として多くの羨望と底のない畏怖の念を向けられてきたキセキの世代、そのうちのふたりがいま火神の目の前にいる。頭で考えなくとも自然に腕がうずうずしてしまう。三秒ほど沈黙を置いた後、重々しく口を開くには。
「まあ、バスケすんなら」
 あっけなく火神が陥落したことを知った黄瀬は、端正な顔をにやっとさせ、今度は黒子を振り向く。
「ねっ、火神っちもこう言ってることだし黒子っちもいいでしょ?」
 黄瀬が黒子を背中から抱き込むように腕を回す。耳元に唇を寄せ、頬で黒子の髪をちょっと掠める。ちょうど空気の澄んだ晴れの日に広がる空の色と、そこにさんさんと眩しく輝く太陽の色の髪がむつまじく重なり合う。一連の所作は誰かが息を漏らすほど滑らかだった。
 緑間の目には、それしか映らなくなった。音も匂いも肌の感触もすべてが遮断されて、視覚ばかりが無理矢理に働く。それからすぐに頭がカッと熱くなるのがわかった。
 気づいたら黄瀬の胸ぐらをつかみ、校門の土壁に叩きつけていた。鈍い音を立てて彼の背中が激突する。勢い余ってその衝撃は緑間をも襲った。一瞬、息が苦しくなる。相手のシャツを強く握り込む拳がじんじんと痛む。そんなの、かまうものか。
「緑間くん!」
 黒子が叫んだ。いつもはしゃりんしゃりんと鈴を転がすように甘くのびやかな声であるのに、色を変えて震えている。焦っているようだけれど、何をそんなに焦ることがあるのだろうかと思った。
 考えるや否や脳裏にフラッシュバックが起こり、いま自分が感情のまま人を傷つけようとした事実を突きつけられた。嫉妬という欲に駆られて。
「ちょ、どうしたんスか、いきなり……」
 憑き物でも見たように黄瀬の顔が強張る。哀れな人間だと言われているかのようにさえ緑間の目には映った。予期しなかった自らの行動が恐ろしくて、黄瀬を押さえつける手が、どうしようもなく震えはじめる。
「オレ、は」
 何か言わなければと思うほどに言葉は腹のなかで空回り、喉奥がひゅうひゅうと鳴るだけだ。なんと惨めだ。そう思うと同時に唇をぎゅっと噛みしめ、緑間は走り出していた。
「緑間くん!」
 また黒子の声がする。その音はとても痛々しく、彼のあの柔らかい喉が自分の愚かな行動のせいで張り裂けてしまうのではないかと、申し訳なかった。



 がむしゃらに走った。視界の端に流れていった空や木や人などの景色は、よく覚えていない。
 とは言え誠凛高校からここまで、まだそう遠くへ来たわけではない。見知った場所であることは間違いないはずなのに、緑間はどこか違う世界に迷い込んでしまったかのように呆然とした。次第に、胸をつまらせるほどの疲労感が脳の内側から染み出す。同時に、ひどく喉が渇いていたことも思い出した。緑間は力ない足取りで寂れた路地裏へと身体を引きずった。壁に背をもたれさせ、そのままずるずる膝を折る。もう呼吸することさえ諦めたいと願って、頭をしなだらせた。
 そうしていてどれほどの時間が過ぎただろうか。ふっと、隣に人の立つ気配が現れた。緑間にはこの感覚がよく馴染む。ふだんは本当に影が薄いから、姿が見えないでいると驚いたり、怒ったり、そして途端に不安になったりして振り回されてばかりいると思う。けれども、気がつけばいつも当たり前のように側に寄り添ってくれている彼のことを、言葉にはできないくらい愛しくも思う。
 黒子、かすかな唇の動きだけで彼の名前を形作る一方で自らに向けて細く嘲笑し、ゆるりとおもてを上げた。
「幻滅、しただろう」
 黒子は両手で軽く拳を握って肩で息をしていた。緑間が駆け出してから、すぐに走って追いかけたのだろう。そんな彼の顔を見ることはできなかった。いまの緑間には勇気がなかった。
 黒子はふっ、ふっ、と呼吸を整えるための小さなため息のあと、静かに音を紡ぐ。
「誰をですか?」
「オレのことに決まっている」
「どうして」
「お前は!」
 いよいよ緑間はガッと勢いよく上体を起こした。自分の不甲斐なさに、声が怒る。ようやく目にした黒子の表情は、いつもと変わらず穏やかに笑んで、緑間を迎える。それなのに緑間は険しい態度を突きつけてしまう。焦りと自己嫌悪。黒子の透き通るような水色の瞳のなか、いまの緑間はどう映っているのであろうか。きっと彼に対して怒りをぶつけているように思っているに違いない。そうでないのに。自分の力では、この悪循環を正すことができない。まるで無力だ。緑間はふたたび項垂れると、ぽつりぽつり呟いた。
「お前は、いったい、何を見ていたのだよ」
 そうだ、先ほど見られたのだ。嫉妬心などというくだらないものに心を乱されて、他者を傷つけた、薄情な自分を。一番見られたくない人間に。
「見ていましたよ」
 身体が芯から凍てついていく。指先でちょっと突かれただけで、ばらばらに砕けて散ってしまいそうな心地だった。もう息を吸うことも吐くことも上手くできなくて、ただ身を縮める。
 頭の上から、黒子の声が降りそそがれる。
「もしボクの思い違いだったらすみません。キミは嫉妬をしてくれたのでしょうか、黄瀬くんに」
 その通りだ。小さくうなずく。
「こんなことを言っては不謹慎ですけれど、ボクは嬉しいですよ。だって緑間くんがボクのことを思って心を動かしてくれた証拠でしょう? ありがとうございました。ボクは、とても嬉しい」
 緑間は自分の肩を抱き寄せた腕のなかで、ハッと目を見開いた。黒子は手放しに緑間のすべてを受け入れると言う。嫉妬心なんて醜いばかりで、それに容易く振り回されてしまうことが情けなく、知られたくなかった。けれど、違った。黒子は緑間の胸のうちを知って、嬉しい、と言う。
 黒子に対する恋愛感情を自覚してからは、いつもどこかで自分をおとしめていた。いつ黒子に嫌われるだろうかと、不安で、その真実から目を背けた。けれど、いまになって、そんな自分でもいいのではないかと思いはじめる。感情、思考、言葉。他者に自分の何もかもを晒すことは、生きていくなかで、本当は一番恐ろしいことなのかもしれない。でも、もう恐れない。だって、緑間が生まれてはじめて恋に落ち、心の底から大切にしたいと思った相手だ。黒子を信じて、また、信じられる存在でありたい。
「さあ、帰りましょう」
 黒子が温かい風をまとわせて、緑間のすぐ近くにしゃがみ込む。肩に柔らかく黒子の手が置かれる。全身を抱きしめられているような心地良さだった。
「ふたりで」
 黒子の手に、そろそろと指の先を沿わせてみる。触れたところから自分ではない他人の体温が身体のなかに沁みる。心臓の鼓動さえ、微かながら確かに伝播していた。交差した腕の隙間から黒子の顔をちらりと見やる。黒子は、やはり笑っていた。



 後日、緑間はマジバのベンチシートのいっかくに腕を組んでどかりと座っていた。近くに黒子と火神と黄瀬がいる。今日のこの珍妙な集まりは、黄瀬がセッティングしたものであった。
 休日の午後、店内は学生の団体や小さい子どもを連れた家族や派手な見た目をしたカップルなどで雑然としており、誰かが席を取っていないと、次にまたいつ座れるかわからない。
「黒子っちと火神っちで先に注文行ってきなよ。オレたち席取っとくんで、ね、緑間っち?」
 黄瀬がひょうひょうと先導を切ったのを、緑間はこくりと頷いて応える。そういうことならとさっそく動き出す火神の横で、黒子がちらっと緑間のほうを見たが、緑間はずっと正面を向いていた。やがて黒子の影もスッと消え、黄瀬と緑間はふたりきりでしめやかに席に座った。
 話すのはあれ以来だ。黄瀬が自ら緑間とふたりになる場所を設けたのは、何か意図があるのか、それとも何も考えずにいま緑間の目の前に座っているのか。緑間は真っ直ぐに対峙する男のことを図りかねた。腕組をした指先が、びりりっと震える。
「この前のことなんスけど」
 指に気が散ったとき、黄瀬がとうとつに口火を切る。緑間は少しの動揺を隠すために、思わず眉間に皺を寄せて目を眇めた。
「そんな怒んないでよ」
「……べつにお前を睨んだわけじゃないのだよ」
「なんだ、そうっスか」
 また沈黙に包まれる。いまのは下手した。ふだんであれば周囲の目などまったく気にならなものを、いまの緑間には一番気まずく身にこたえる。緑間は唇をぐっと歯噛みして、謝罪することを決断した、そのとき。
「悪かったっスわ」
 黄瀬が窓の外を横目で眺めながら、そう言った。自分のしようとしたことを先に取られてしまって、緊張していた緑間の身体から、ふっと気が抜ける。緑間は口を半開きにして聞き返した。
「なぜお前が詫びる?」
「黒子っちにぜんぶ聞いたんスよね。で、ああそういうって。オレ、知らないうちに野暮なことしてたんだなあ、って」
 黄瀬が腕を上に反らしながら椅子にグッともたれかかった。今度は机に頬杖をついて、緑間のほうへまっすぐに視線を合わせてくるから、緑間も黄瀬の目を見た。そうしてあらためて相手をじっと見つめていると、不思議と、許されているように感じた。もう過ぎたことだから気にすることはないのだと。そう考えはじめると、緑間は、また、信じてみたいと思った。黒子のことを信じたあのときと同様に、今度はいま自分の目の前にいる男のことを。
「本当に謝るべきは、オレのほうなのだよ。……すまなかった」
 ほんの小さな小さな言葉の欠片になった。けれども黄瀬はそれを確かに拾って、ニッと笑う。
「でも、意外っスね」
「何のことなのだよ」
「ふたりがそういう関係ってこともだけど、一番驚いたのは緑間っちがあんなに感情むき出しにしたことかな」
 黄瀬がさらっと話すことが、緑間の胸には深く突き刺さる。拳を軽く握り締め、また言った。
「……みっともない姿を見せて悪かったのだよ」
「へ? 誰がっスか?」
 なんと、あっけらかんとしたことか。まるで緑間だけが常識を知らないような口ぶりだ。少しムキになりながら「そんなの、オレが、」と答えようとする緑間の言葉をさえぎって黄瀬は言う。
「みっともないことなんてないっスよ。好きな人を守りたいとか自分だけのものであってほしいって思うの、それ、当たり前じゃないっスか。オレは、そう思うよ」
 黄瀬のいつもはよく通る声が、いまはワントーン低くなって大人っぽく落ち着いていた。耳障りの良いその音は、ムキになって起こした子どもじみた緑間の反抗心を嫌味なく、ゆると沈めた。しかし次の瞬間。
「だーけーどっ!」
 黄瀬は緑間の眉間の前に右手の人差し指をビシッと出して、もうはしゃいだ声を上げる。緑間は突然のギャップと黄瀬の勢いに目を見開き、背もたれのぎりぎりまで後ずさった。眼鏡が三ミリほどずり下がる。
「いきなり何だというのだよッ」
 眼鏡を押しあげて、緑間がじれたように聞くと、黄瀬はにんまりと明るい笑みを浮かべてこう言う。
「黒子っちはオレの大切な親友なんスから、泣かせたりしたら緑間っちでも承知しないっスよ」
 黄瀬の言うことが、ふたたび緑間の胸を突いた。ふと、いつも緑間へ向けられる、あの柔らかい黒子の笑顔が頭をよぎる。あの笑顔を守りたい、これからずっと隣に並んで、黒子を幸せにしたい。緑間の心が温かく火を灯す。緑間はふっと笑った。
「そうだな。ならば黄瀬、もしオレが黒子を悲しませることがあったときは、お前がオレを殴ってくれてかまわないのだよ」
「ええーっ! それ、マジっスか!?」
 すっとんきょうな声を上げて、黄瀬が椅子からガタガタと立ち上がる。雑然とした店内の視線が一気にこちらを振り向く。注目を集めるのは緑間にとってあんまり好ましいことではなかったので、やむなく黄瀬の脳天をげんこつで殴ったのだった。


2018.02.12(美しいだけじゃ足りない)