テキスト | ナノ

 世間は休日の昼下がり。頭上に広がる空の青色は爽やかすぎるくらいだが、五月の日差しは下界の人間にやさしくない。特に、さっきから自転車をノンストップで漕ぎ続けている高尾は、もう汗だくだ。しかも自分以外に人ひとりぶんの体重が加わった状態だから、尚更だ。
 自転車に運転手でない他の人間が乗っていると聞けば、普通はいわゆるふたり乗りを思い浮かべるだろう。けれど、彼らの場合はひと味違った。高尾の背中越しには『リアカー』が付属している。木製でそこそこ大きさのある箱は、ラーメンやおでんなどの屋台の親爺がよっこらよっこら引いているのが、ドラマなんかで印象にある。日本では軽車両として公道利用も認められている。であるけれど、若者のはびこる都会のショッピングタウンの真ん中でこの出で立ちはとにかく目立つ。
 すれ違う人たちの視線は釘づけ、子連れ女性には「見ちゃいけません」なんて子どもの目を覆って、まるで地球外生命体のように扱われるのを受けて、高尾が唇を真一文字に引き結んで気まずくなっているというのに、例のリアカーに悠々と座る当の本人は余裕しゃくしゃくの様子。自販機で買ったおしるこを手にして、時おり優雅に口に運んではほっとひと息吐く彼に、お前の神経はいったいどんだけぶっといんだよと、言葉を投げつけてやりたくなる。その人物こそが、緑間真太郎だった。
 彼は高尾と同じ高校のバスケ部の同期で、自慢ではないけれど、周囲の人たちに「お前ら互いに良い相棒だな」と言われるくらいには、バスケプレイも合っていると自負している。今日もその部活の帰りで、ふたりの通う秀徳高校からここまでようやく漕ぎつけたのだ。その間、交代してやろうか、と光明差すようなありがたいお言葉が緑間の口を吐いて出ることもない。どちらがリアカーを引いて自転車を運転するかは、一発勝負のじゃんけんで決定する。高尾は負けた。敗者にかけられる情けなど、この世に有りえない。世知辛い世の中だ。
 わざとらしくやれやれと首を横に振って、高尾がペダルを回し続けていると、俯瞰的に見ていた景色のなかによく知る姿がふと見えた。国道沿いにひしと立ち並ぶコンビニ、ファミレス。信号をはさんで家電量販店とガソリンスタンドに、マジバーガー。その、通称マジバを少し過ぎたところをぽてぽてとひとりで歩いていく彼を見つけて、高尾は、おっ、と奥歯を噛み片方の口角だけ持ち上げると、キィ、キキキィッと盛大な音を鳴らしながらブレーキをかけた。勢い余って少しつんのめる。後部に座る緑間は慌てておしるこを掲げてバランスを保ち、目くじら立てて高尾を覗き込んだ。
「おい高尾! 急ブレーキは危険なのだよ。おお方よそ見運転でもしていたのだろう、運転手として乗り物を使用するのであれば、例え自転車などの軽車両だとしても、人の命を預かっているのを自覚してだな。だいたいお前はッ」
「こんにちは、緑間くん」
「は……っ?」
 口をぽっかりとあけた緑間の目線の先に突如として現れたのは、マジバのドリンクカップを手に、楽しそうにほんのり笑う黒子だった。挨拶をされるまでまるで気がつかなかったようだ。
 一方の高尾はと言ったら、黒子の歩く姿に最初に気づいたのは彼だったので、平然とした様子でにこやかに、よおっ、と右手を上げる。
「高尾くんもこんにちは」
「それ、またバニラシェイクか?」
「はい、そうです」
「お前、それ大好きだね」
「美味しいですよ」
「まあな」
 緑間が口をぱくぱくさせる間に、高尾と黒子の緩やかな会話が進む。やっと正気を取り戻す頃には、「オレらは部活の帰りなんだけど、黒子は?」「誠凛は今日はオフで、のんびり出かけに来て、いまから帰るところです」という他愛ない情報交換も為されていた。
 緑間は、それまで周りからどんなに白い目で見られようが、高尾がぜえはあ言っていようがまったく構わない素振りだったのに、途端にいそいそとリアカーを降り出した。
「黒子」
「はい、部活お疲れ様でした」
「ああ」
 顰め面で無愛想に見えて、黒子の正面に向き合う緑間の頬は薄っすらと紅潮している。普段は我が儘な天才エース様も、良い人の前では威厳も何も形無しだと、自転車のハンドルに上体をだらしなくもたれさせ、高尾は熱いため息を吐いた。
 見つめ合うふたりと自分との間に、目に映らない分厚い壁がどんっと現れたみたいで、緑間と黒子はふたりの世界へ隔離される。そんないつ戻ってくるのか分からない時間を、無為に過ごすのはごめん被りたい。高尾は握った拳を口に寄せ、うおっほん、とひとつ大げさに咳払いしてみせた。
「はいはい、そこまで。いくらお前らのラブラブっぷりが微笑ましくても、放置されるのは勘弁」
「おい」
「リア充爆発させんのはお家に帰ってからな」
 むっと眉根を強張らせる緑間を無視して、高尾は軽くウインクを投げる。それを受けた黒子がおそらく照れ隠しで、とは言っても表情はまるで変わらないけれど、シェイクのストローに口づけた。
 緑間と黒子は恋仲として付き合っていた。共に過ごした帝光中での日々を未消化のまま別ち、違う高校に進学した後もしばらくは互いにどうにも気まずい距離感でしか接することができなかった。そこにちょっかいをよくかけていた高尾だったが、まさか彼らが付き合うなんて。
 という驚きも、緑間を上手く誘導尋問して知った直後に霧散した。緑間真太郎という人間は、不器用そのものである。彼の言葉を聞く者はみな、いつもその裏にひっそり隠れた本心を読み取らなければいけない。そして、緑間の、黒子に対する言葉には、他のどの人に向けるでもない思いやりがありったけ込められていた。それを、高尾は、近くにいて肌で感じた。緑間が黒子との関係を望んだのは遅かれ早かれだ。
 思わずため息が漏れる。それが風に乗って回りまわって、自分の肩にずっしり重くのしかかるのを、振り払うように上下させ、高尾は口を開く。
「つか黒子さあ、いまから帰りだっつんならオレらに混ざらねえ?」
「混ざるとは?」
 黒子が高尾を目にして、小さく首を捻る。高尾は後ろ手に親指を立たせた。
「これだよこれ、リアカーに乗ってけってこと」
 言いながら緑間のほうをちらっと見ると、彼は話の流れに不審を抱くような顔をしていたが、黙って聞く耳を持つ気の様子で、腕組みをして顎を使って先を促した。高尾は再び黒子を振り向いた。
「途中まででも歩いてくより速いし楽だぜ」
「でも、いいんですか? ボクがキミたちに着いて行っても」
 今度は黒子が緑間を振り仰いだ。緑間は左手で眼鏡のブリッジを押し上げ、さりげなくそっぽ向く。横顔が、ばっちりと赤らんでいる。
「それくらいお前の好きにすればいいだろう」
「はい、ありがとうございます」
 黒子が屈託なく笑うのを斜めに見ていた高尾は、よしっ、決まりな、と手を打った。
「じゃ、ほら」
 そのまま手を『グー』にして突き出すと、緑間と黒子が同時に首を傾げる。
「ほら、何してるんだよ。お前らも」
「高尾、まさかとは思うが……」
「ああ」
 ニイィィッと高尾の顔が輝くように歪んでいく。
「じゃんけん、やるだろ?」
「なぜそうなるのだよ」
「なんでって、これに乗りたきゃじゃんけんで勝負してからって決めたのオレらじゃん」
「乗っていけと促したのは、高尾、お前だろうっ。だいたいまだいつもの交代の地点じゃないのだよ」
「ええー、それはさあほら、お客増えたんだから。つか黒子だってただ乗りしてフェアじゃねえのは気持ち悪いと思うしぃ?」
 言いながら、高尾は横目で黒子に視線を送った。挑発するかのようにじっとりと見やる。黒子は少しだけ困った様子でちょいちょいと自分の頬を三回くらい掻いたが、すぐに目にぐっと力を入れ直すと、高尾をまっすぐ見つめ返した。
「そこまで言われては、引き下がることはできません。その勝負受けて立ちましょう」
「お前は言ってくれると思ったぜ」
 曲がったことを見過ごせず、例えどんな不利な状況でも、勝負を投げ出すことなんて絶対にしない。黒子はそういう奴だということを知っていた高尾の勝ちは、決まっていた。意外なところでノリが良いことも好ましい一面だ。
「黒子も言ってるしさ。なっ、真ちゃん!」
 高尾が笑顔で追い打ちをかけると、緑間はそれでもまだ渋るようにゆっくりと口を開いた。
「……本当に良いのか、黒子?」
「はい。それに」
「なんなのだよ」
 黒子が、ほうっと息を吐く。瞬く瞳と一緒に揺れる睫毛は、空へ高く羽ばたく蝶のようだ。
「いつもちょっとだけ羨ましかったです。楽しそうな、キミたちが」
 そうとまで言われて、緑間が黒子を拒めるはずなどない。しばらく伏し目がちに考え耽っていた緑間は、やがて何も言わないまま拳を出した。高尾と黒子がお互いに笑い合う。
「じゃ、最初はグーっ、じゃんけん……」
 高尾、緑間、黒子の順にチョキ、チョキ、パー。
「負けてしまいました」
 黒子のひとり負けだ。
 高尾にはじゃんけんの勝負を提案したときから決めていたことがあった。黒子が負けた場合、やっぱり気が変わったと言い、勝負をなしにすることを。
 黒子は確かに自分たちと同じバスケコートに立つバスケ選手で、彼にしかできないそのプレイを高尾は認めていた。しかし、ユニフォームのタンクトップとハーフパンツから覗く手足はと言えば、よっぽどスポーツマンと思えないくらい細い。
 適度に筋肉のついたふくらはぎはスラリとしていて、日に焼けずに白い。前にふざけて力こぶを入れているのを見たけれど、それはそれは、思わず涙が出そうなくらい薄っぺらいものだった。ちいさい子どもの作った砂山のほうがまだマシだ。
 そういうものだから、高尾には、そこそこ大きさのあるリアカーを引き、黒子が自転車を漕いで行けると想像できなかった。しかもそれに加えて、筋肉量の並外れた運動部の男子高校生ふたり分の体重までかかるのだ。帰宅するのにどのくらいの時間を要するだろうか。それよりも、途中で黒子が息絶えることのほうが早そうだ。
 緑間が負けてくれたら高尾にとっては万々歳だったが、今日のおは朝占いで蟹座は一位。ラッキーアイテムの『爪切り』も所持済みであることは知っていた。彼の負けはないと分かっていた。占いの結果で緑間の勝敗を察することができてしまう自分も相当毒されているなあと、高尾は半眼になって笑う。
 それから気持ちを切り替えるために、頭を小さく横に振って息を吐いた。高尾が右手を上げかける。いつもの自分らしく軽い調子で笑って、黒子の肩に腕を回そうとしたとき。
「オレがやる」
 ぽつりと低くぼやく声が背後から聞こえてきた。振り返れば、緑間が切れ長の目をさらに細め、すごく真剣な顔をしていた。まわりを圧し込むような空気に、高尾は息をのむ。
「緑間くん? どういう……」
 黒子が目を丸くする。
「言葉の通りなのだよ。お前の代わりにオレが自転車を漕いでやると言っている」
「でもそれじゃあじゃんけんの意味がありません」
「お前の脚力で進める距離などたかが知れている」
 そこまではっきり言うのか、と高尾が呆れるくらい緑間の口調はきつい。黒子も「やってみなければ分かりません」とむくれた声で言い切った。
 緑間の表情が揺れる。内側から柔らかい殻を破くみたいにとろけていく。傍観するだけの高尾は、息が詰まりそうになった。緑間はそれくらい切ない顔をしていた。
「……お前に無理をさせたくないのだよ」
 落下した声音は緑間の言葉のなかで唯一素直さを曝け出したものだった。意地の塊みたいな男の口からそれを引き出すことができる人間など、この世にいったいどれくらいの数いるのだろうか。いいや、きっと、いま高尾の隣で優しい微笑を浮かべる黒子にしかできないことだ。
 それについさっきまで頬を膨らませていたのに、彼は緑間の言葉ひとつでもう笑っている。かなわない。見せつけてくれる。
 高尾はお腹を抱えて、大声を上げて笑いたくなった。自分のなかで渦巻く感情をどうにか逃がしたくて、解き放たれたくて、喉に手を突っこんでもすべてを掻き出したかった。そうすれば自分がいかに汚い人間か分かるだろう。むなしいだけだ。
「……ということで良いですか、高尾くん?」
 ようやく耳に飛び込んできた黒子の呼びかけに、のろのろと顔を上げる。
「えっ、なに」
「聞いてなかったのか。じゃんけんは黒子の負けだがオレが代わりに漕ぐ。そうとなったらお前も文句はないだろう」
 緑間が怪訝そうな目を向けて、見下ろしてくる。
「そう、だな」
 高尾は下手な笑みを貼りつけ、それだけ答えた。
 意識の向こうで黒子が「ありがとうございます、緑間くん」と首をちょっと傾ぐ。それを言われるのはきっと自分だったはずなのにとぼんやり考えて、すぐに心のなかで、ぐしゃり、握り潰して捨てた。
 最近はじゃんけんが連敗つづきで自転車を漕ぐほうが多かったから、リアカーに腰を落ち着けるのは高尾も久しぶりだ。木箱の縁に大っぴらに腕を引っかけて、天を仰ぐ。
 空はあいかわらずの快晴で、ぎらつく太陽が旋毛をじりじりと焼く。あとへあとへ流れる風が、高尾の黒髪を揺らした。容赦なく眼球を攻撃してくる前髪を掻き上げると、視界の端、緑間の広い背中が目に入った。重量を感じさせず、リズミカルに肩を上下させる。アレグレットで刻み続けるメトロノームみたいだ。それから視線を真横に滑らせると、高尾の隣に黒子がちいさく膝を折って座っていた。高尾の手の届く場所に、すぐ近くにいる。黒子の薄い水色の髪も、騒がしい風に靡いていた。
「真ちゃんってときどきすっげえ男前だ」
 耳に口を寄せてそっと囁くように言ってやれば、黒子は擽ったそうに肩をすくませる。
「はい、緑間くんはいつもやさしいです」
「ふつうに惚気んなって」
 高尾は肘で黒子の脇腹を小突いた。緑間がチラチラとこちらを窺ってくるのが見える。
「おい、そこのふたり、煩いのだよ。運転に集中できないだろう」
「そんな難しく考えることでもないって」
「だからお前はダメだと言うのだよ。運転手として乗り物を使用するのであれば、例え自転車などの軽車両だとしても、人の命を預かっているのを自覚してだなっ……」
「あー、はいはい。それさっき聞いたよ」
 お手上げだと示すみたいに、高尾は右手を宙に放り上げる。黒子はいまだに説教を続ける緑間ばかり見ていた。


2017.05.19(繋がらないエンドロール)