部屋のなかには、のんびりした空気が、ぼんやりと漂っている。壁にかかった銀縁の丸時計は午後十時を少し過ぎたところだった。 柔らかいソファに腰を沈め、静かに読書していた黒子は、時刻を確かめてすぐ、出番を急に思い出し舞台へ飛び上がる役者のように出てきたあくびを、手に広げた文庫本で覆い隠す。ちょうど正面にある電源の切られた真っ暗なテレビ画面に、自分の気の抜けきった顔が映るのを見た。一日の勤めを果たし尽して、ようやく迎えることができた癒しの時間。心が緩むのもいたしかたない。 そこではじめて物音がした。リビングから玄関先までの廊下をへだてるドアが、カチャッと小さく開く。眠る草花を驚かせないように凪いでいく風みたいな遠慮があった。 向こうから姿を現したのは、黄瀬だった。 「シャワーお先っス、黒子っち」 下には黒のスウェットパンツを履いているが、上半身は首にフェイスタオルを引っかけただけで、半裸のままだ。たくましく締まった腹筋が、鎖骨や胸元を隠すタオルの下から覗く。学生の頃、ただひたすら自分のバスケを追い求め、たくさんの大切な人たちときらきら輝く時間をともに過ごした名残だった。 黒子が閉じた本を手持ちぶさたに指先で遊びながら、過去を懐かしんで、彼の身体をしげしげ眺めると、裸足でぺたぺたと床を鳴らして黄瀬がこちらへやって来る。頬が薄っすらと赤みを帯びている。 「上着てませんけど寒くないんですか?」 「まだ平気。オレ、シャワーのあとすぐに服着るの苦手なんっスよね。べたべたして、ヤな感じ」 「ほどほどに着ないとだめですよ」 「はあーい」 ほんのりと濡れて高級な蜂蜜をさらにあまく煮詰めたみたいな髪を、溢れ出た蜜をすっかり掬い取るように掻き上げた黄瀬が「オレのことよりも」と、身を乗り出して黒子に迫る。 「ね、ねっ! 黒子っちもはやくお風呂入ってきなよ」 そう急かす黄瀬が、手を取ってさっさと立たせようとしてくる。黒子は何の抵抗もなく、されるがままにソファから腰を上げた。 「どうしたんですか急に?」 「へへっ、いいから、いいから」 声がうきうき弾んでいる。背中を押されて、勝手に浴室へ向かわされながら、黒子は黄瀬の顔をちらりと盗み見た。みんなで行く遠足がもう待ち遠しくてしかたない子どもみたい。顔を振り向かせた拍子に、嗅ぎ慣れたシャンプーの香りが鼻を擽った。 黒子の頭のなかにはたくさんの疑問符が浮かんでいたけれど、ひとりで楽しそうな黄瀬にあっさり毒気を抜かれ、なんだなんだと騒ぐ気はそがれた。 浴室まで黒子を連れてくると、黄瀬はいつの間にかちゃっかり持ってきていた黒子の着替えを押しつけ、「ごゆっくりね」と手を振ってまたリビングへ戻っていった。 彼の良いように脱衣所に取り残された黒子は、しばしその場に呆然と突っ立っていた。腕に抱えた自分の寝間着を見つめ、のろのろ思考を働かせる。 言われなくてもどうせすぐここへ来ることには変わりなかった。しかも黄瀬のすることに対しての反抗心など、黒子ははじめから持っていなかった。なのでこれで肩を角立たせて、わざわざリビングへ戻る必要はない。 黒子はついに着ていたシャツの一番下のボタンに指を添わせた。しかしそれをひとつ外したあと、一度だけ小さくため息を吐いていたのはたぶん無意識のうちだった。 扉をスライドさせて風呂場へ入る。裸足になった足の裏にひやりと冷たい感覚が襲う。けれども一歩濡れてしまえば気にならないことだ。 室内は淡く色づくクリーム色の壁に囲まれ、お湯の張られた湯船から白い湯気がもわもわ漂い上に上に昇っていく。天井に粒となって張りついていた滴が垂れ落ちて、ぴちゃんぴちゃんと音を立て、何度か床を叩いた。 湯船にお湯を溜めたのは、黄瀬だ。そもそも黒子はシャワーだけで風呂を済ませてしまう人間、実家にいたときはそうでなかったけれどひとり暮らしを始めた頃から、だったので、こうしてお湯を残してもらわなくたって良いのだ。 という話を、前に何気なく黄瀬に伝えたら、とても小言を言われた。 「しっかり温まらないと風邪ひくかもしれないからダメっスよ!」 語気を強くして黒子の肩をぶんぶんと揺さぶってきた黄瀬だが、それなら自分も風呂上りにちゃんと服を着込んで身体を冷やさないようにするべきだと主張してやりたい。しかし「それに、お湯に浸かったほうがぜったいに疲れも取れるだろうし」と言っていたのには、黒子もじゅうぶん納得している。 黒子は最後に正面へと目をやった。上半身が映るくらいの鏡がある。なんとなく違和感を覚える。 鏡は曇っていた。暖まった大気中に漂う無数の水の分子が不規則に表面へ付着し、鏡は上手く光を反射することができず乱反射を起こしているのだ。 その鏡の表面に『大好き』の三文字が書かれていた。 誰が書いたのかなんていうのはわざわざ聞かずとも明白なことで、黄瀬の仕業に違いない。彼が黒子にはやく風呂へ行くように急かしたのは、きっとこの鏡の文字を黒子に見せたかったからだ。 どんなバッターにもストレートで勝負を挑む野球のピッチャーみたいに素直なその言葉に、黒子の心が明るく焦がれていく。 黄瀬はどんな顔をしながら、曇った鏡に向かい言葉を綴ったのだろうか。あるいは黒子のどのような反応、表情を期待して。 ぼんやり文字を眺め、ふと、文字の先からだんだん水滴が垂れていることに気づいた。手のひらで溶けていく雪を思わせる。 黒子は流れていく文字の欠片を留めるように、指を鏡にぴたりとあてた。そのままキュ、キュッ、と指先を動かして、返事を小さく小さく鏡に刻む。 鏡の上でふたつ寄り添う文字に、黒子は静かに笑う。次の瞬間、手早くシャワーヘッドをつかみ、レバーを勢いよく回した。ザアザアと止めどなく出てくる湯が鏡に当たって、激しく水飛沫を上げる。 文字は何の抵抗を示すこともなく、あっけなく消え去ってしまった。惜しいとは思わない。時間が過ぎれば、いずれ同じことが起きただろう。ならばこの手でちゃんと解放したかった。そうすれば彼がくれた言葉のすべては、自分のものになる気がした。 あとには薄花色にほんのり色づく裸体をさらした黒子の、微笑んだままの顔が映っていた。 浴室へ行ってから、二十分は経過しただろうか。黒子は寝間着をきちんと着込み、首にかけたタオルでまだ湿っている髪をぬぐいながらリビングへ戻った。 さっきまで半裸だった黄瀬も、黒子がシャワーを浴びているうちに身なりを整えたらしい。ソファで脚を組んでスマホを弄っていた。 黒子の姿を見た黄瀬は途端に、口角を上げて、ぱあっと明るい顔をする。自分の残した仕掛けに、黒子がどう反応したのか気になっているのがバレバレだ。主人の命令を利口にこなし、褒美を待つ犬のよう。 「ああいうことを、よく思いつきますね」 「鏡が曇ってたら何か書きたくなんないっスか?」 「子どもの頃の話です」 黄瀬は、黒子がどんなことを言っても、にこにこしていた。やがて口を少しだけ小さくして言う。 「いつもは口で言うだけだから、文字にして知ってほしかったんスよ、オレの気持ちを」 焼けるほどの視線で真っ直ぐに見つめられて、その圧倒的な存在感の力に、黒子は答えを探しあぐねた。ひと息置いて考えてみるものの、出てきたことは、「そういうところが、キミらしいです」と、口をぱくぱくしながら話すのが精いっぱいだった。 それでも黄瀬は黒子が答えてくれたことに満足そうに笑って、ぽんぽんっと自分の隣を手打って、黒子にソファへ座るように促した。黒子はやはり今日もなのかと、ほとんど苦笑いしながら黄瀬の言うとおりにする。黒子が黄瀬に背中を向けて座ると、黄瀬は用意していたドライヤーを引き寄せた。 やはりと思ったのは、その行為がおよそ毎日の習慣になっているからだ。黄瀬が黒子の髪を乾かすこと、それが習慣だった。 髪と髪の間に、黄瀬の長細い指がするりと侵入する。けっして黒子の肌を傷つけないように、指先が少し緊張しているのが伝わる。その優しい手と心地良くあたる温風に髪の根元を持ち上げられるのが、黒子は一番好きだった。 どうせ明日の朝には突風にさらされたみたいな頑固な寝癖がつくだろう。それなのに黄瀬はいつもていねいに黒子の髪をセットしてくれるので申し訳ない。けれど、絹糸を扱うように柔らかく動く手つきが気持ちいいから甘えるのをいつまでもやめられない。 やがて頭の上に降り注いでいた心地良い風が止んだ。部屋中に響き渡ったモーター音も時間とともに減衰していき、耳には、黄瀬が、サッ、サッ、と黒子の髪にブラシを通す音だけが触れる。 どれほどの時間をそうしていたのか。長い時間をかけてゆっくり黒子の髪を撫でていたブラシが、とうとう離れていった。 間を置かず、背中にふんわりと熱を感じる。黄瀬が、黒子をうしろから包み込むように抱きしめていた。黒子は身じろぎもしないでおとなしく受け止めた。それはふたりにとって、今日の終わりを告げる儀式のようなものだ。 「はい、明日も一日、可愛い黒子っち」 黄瀬のこの言葉を聞くと、身体の芯から全身がぽかぽかと温かくなっていく。それが、黒子はいつも不思議だった。どうしてそうなるか、黄瀬のほうにすっかり体重を預けて思案するのも、日常だ。 2017.04.30(鏡の国で君にこんにちは) |