昼休み、「失礼しました」と一礼して、赤司は職員室のドアをがらがらと引いた。廊下にはすでに昼食を済ませたほとんどの生徒が出歩き回っていて、若さゆえの溢れ出ん活気がそこら辺に満ちている。委員会に関する連絡のために赤司が職員室へ赴いたのは休み時間のはじまりを告げるチャイムが鳴った直後だったので、彼はそれから食堂へ向かうことに決めていた。 廊下の中央をひとりで歩いていると、赤司は右から左からいくつもの視線を感じた。その一角を振り向けば、三人で小さく身を寄せ合う女子生徒たちがちらちらと落ち着きなくしきりに目を泳がせ、こちらの様子を窺っているようだった。 「ねえ見て、赤司様よ」 「いま私たちのこと見なかった?」 「ええーっ、まさか!」 女性の秘密話というのは思いのほか声が大きいもので、彼女たちの口からこぼれた言葉も、遠慮なしに風が木の葉をがらがらと揺らすような笑い声も、すべてが赤司の耳に届いていた。 名家の生まれで成績優秀、一年生にして強豪中の強豪である男子バスケ部の副キャプテンを任され、教師、生徒、ともに信頼も厚い。それに加えて顔立ちも造作のどこをとっても美しく整っている。周囲の人間は彼のことをこう言った。 完璧な人間である、いや、もはや人間の域を越えている気だってする、と。 その言葉になぞらえて顕著な表現として出てきたのが、呼び方だった。どうしてだったか、いつの間にか『様』なんて名付けて、可笑しく奇妙なふうに言われるようになってしまった。以前に、緑間と並び部活へ向かう途中、幾人の女子マネージャーも赤司をそう呼んでいて、隣で彼女らの様子を目の当たりにした緑間はずいぶん微妙な顔をしていた。彼のあの顔を思い出すと、いまでも苦笑が込み上げてくる。 そう、自分を取り巻く現状は異常だと、赤司は思う。けれど彼はまだ、その感情に名前があることを知らず、ひとりで先を進んでいくのだった。 余計なことを思考しながら歩いていても、前方不注意などというミスをふつうは犯さない赤司だが、廊下を少し行った先、どんっと胸元へ何かが鈍く衝突した。目を丸くし、肩を揺らして慌てて一歩後ろに引く。赤司に周りが見えていなかったわけではなかった。相手の影が、とんでもなく薄かったのだ。 「黒子?」 「どうも」 目の前に突然のように現れたのは、腕いっぱい、小さな身体いっぱいに山積みになったノートなどを抱えた黒子だった。赤司はさっと真面目な顔になって、謝った。 「すまない、黒子。オレの不注意だ」 「大丈夫ですから」 そのとき、黒子の持つ荷物のてっぺんから一冊のノートがするすると滑って、ぺたりと間抜けな音を立てて赤司の足元に落ちた。それを拾い上げて、また黒子の持つ荷物のてっぺんに戻すと、赤司はひっそりと笑いながら「運ぶの半分手伝おうか」と黒子に提案した。黒子は、目をぱちくりさせてから「お願いします」と素直に首を縦に振った。 赤司が荷物のほとんどをすっかり預かると、目の半分までしか見えなかった黒子の顔がようやくちゃんと見えるようになった。 「手伝ってもらってすみません、赤司くん」 「いいや、あんなにふらふらしてる黒子を放っておけるはずがないよ」 「……ボクひとりでも、運ぶの余裕でした」 ぽろっと出た冗談がどうやら彼のコンプレックスを大きく刺激してしまったらしい。黒子が柔らかそうに丸みを帯びた頬をさらにぷくっと膨らませる。赤司は口元だけで隠れて笑うと、すぐに話題を変えることにした。 「これはクラスの課題か何かか? それにしても量が多いな」 「はい、今日、ボク日直で、昼休みに先生の準備室へ運ぶように言われていたんですけど、どうせならこれもあれも一緒に持って行ってくれと」 「だんだんと数が増えていったのか」 赤司がそれは災難だったねと言うと、黒子は少しだけ困ったような顔で返した。 ふたりが目指す準備室は、廊下の一番奥の角を、右手に曲がった場所にある。その半ばにもたむろする生徒は多くいた。そして、赤司はどこを行っても周囲から好奇の目を向けられた。 そのとき、正面からふたり組の女子生徒が歩いてきた。彼女たちは赤司のほうを、どうやら黒子の姿には一ミリも気づかない様子で、ちらっと一瞥すると、ひとりがもう片方の女子に顔を寄せ、口元を手で隠して何かをこそっと呟いた。するとふたりはひそひそと笑い合う。悪気があるわけではないにしても、見る限りで陰口を叩くような行為は、あんまり上品ではなかった。 「きゃあっ、赤司様よ」 「ひと目見られるなんてラッキーね」 「話しかけてみなよぉ」 「ええーっ、無理だって! 私なんか相手にされるわけないもん」 すれ違いざまにそんなことを言っているのが、はやる喧噪のなかでもじゅうぶん聞こえた。 赤司は呼吸するのも鬱陶しそうに、肺に詰まった酸素を外に投げ捨てたあと、目線を下に落とした。周囲のざわめきは確かにまだあるはずなのに、聴覚はそのどれをも拾わない。周りは無となって、ひとりそこに取り残されたような思いだった。 いつだって他人と違うように生きたいと望んではいないのに、自分はずっとひとりぼっち。 「そんなことありませんよ」 ふと、静かな声音が赤司の耳を撫でた。のろのろ顔を向けると、黒子が廊下の先を真っ直ぐに見つめながら淡々と雪が降り積もるように言葉を重ねる。 「赤司くんは、遠くでも上でもなく、いつもボクたちと同じところに並んでくれていて、お話もちゃんと聞いてくれますよ」 おそらく、それは、赤司を目の前に諦めて笑って去っていった彼女たちに対して、思わず口の端から滲み出たひとり言だった。もちろん誰の耳に届くこともかなわないくらいの、小さな呟き。けれど黒子の言葉が誰に知られることはなくても、赤司はそれで良い気がしていた。 ようやく廊下の曲がり角が近づいた。事情を話したら、黒子は学食の相手になってくれるだろうか。 2017.04.15(人間になりたかった神様) |