テキスト | ナノ

 いろんな場所から別れを惜しむ涙声、背中を押す笑い声、願いを託す声、さまざまな声が聞こえる。
 雑踏のなかで耳に入るそれらを、黒子はつい先ほどまでの自分と重ねて、ほっとひとつ息を吐くと、少しだけ口角を意識し、さっと踵を返していった。
 屋外へ出ると、目に飛び込む光は眩しく、突風がゴウッと黒子の身体を攫っていこうとした。一瞬閉じた目を開けば、空の向こうのほうに去りゆく飛行機があった。あのなかには、どんな人たちがいて、どんな国へ行くのだろうか。仕事に、旅に、自分の夢を掴むために? そんなことをぼんやり思案していると、ふいに「黒子」と名前を呼ばれた。
 すぐにそっちを振り向く。黒子を声で招いたのはどうやら赤司だったようで、ベンチへ腰かける彼の周りには『キセキの世代』がそろっていた。
「今日は彼のお見送りにここまで来ていただいて、ありがとうございました」
 小さく駆け寄って、黒子はぺこりと頭を下げた。
 黒子が彼と言うのは火神のことだ。今日は、自分の昔からの夢に向けて大きな一歩を踏み出し、アメリカへ行くことを決めた彼の大切な日だった。そんな日に、先日の特別試合を火神と、自分とともに力を合わせて戦ったキセキの世代の彼らがこうして足を向けてくれたことが、黒子は自分の身に起きたことのように嬉しかった。
 けれど次に黒子が頭を上げると、不機嫌そうな顔が三つ現れた。
「お前に礼を言われるのは筋違いなのだよ」
「そうそ、べつにオレは火神のためにここに来たわけじゃないんだからね〜」
 緑間と紫原が口々にそう言う。赤司と黄瀬を見れば、ふたりともに苦笑していた。
 そんななかで、特にむすっと眉間に皺を寄せて不服そうな青峰が、言葉なく黒子の真正面に立ちはだり、黒子をじいっと見おろした。黒子も、行く手を阻む高い壁のような彼の目を静かに見上げる。すると青峰の手が持ち上がり、黒子の目元をぎこちなく何度か撫でた。
「テツ、お前、泣いただろ」
 青峰の鋭い指摘に、黒子は人事のように、おや、と思うだけだったが、周囲は瞬く間に騒がしくなった。
「ええっ! マジっスか黒子っち!? うわ、マジだ。目、ちょっと赤くなってるっスね」
 赤司の隣に座っていた黄瀬が飛び上がり、青峰の傍から、黒子の顔を覗き込んだ。どこまでも透いて見えるようなアイスブルーの瞳を縁取って、軽く充血の跡が見られる。
「なになに? 黒ちん、火神に泣かされたの?」
「泣かされただなんて大げさだと思いますけど」
 紫原に返事しながら、黒子が目を擦る。
 たしかに黒子は、火神が最後、自身の回顧や不安をすべて包み隠さず吐露してきた言葉に、胸のうちから何か高ぶるものが込み上げ、隠れて泣いた。たぶん火神もそうであったように、黒子の頭のなかにも、彼との出会いからそして現在の場所に来るまでの自分たちの“いろいろ”が過ぎっていた。
 火神は光で、黒子はその人の影であったことを、自然と目から涙が流れるほどに、あらためて噛みしめた。
 あとからあとから背に打ちつける波のうねりみたいな気持ちを、どうやって伝えるべきかと深く思い悩んでいると、突然、背後から、目尻にあてた手を少し強いくらいの力でぐいっとつかまれた。
「目が腫れる、もう擦るな。痛々しくて見るに堪えないのだよ」
 黒子の手を取ったのは、緑間だった。本当に怒っているような、しかし本当に心配しているような、複雑な表情を浮かべている。
 ふたりのやり取りを見ていた黄瀬が、すぐに自分のスポーツタオルを黒子に差し出した。
「かわいそうに。黒子っちを泣かせちゃうなんて罪な男っスよねえ、火神っちも」
「ほんと、あと追っかけてひねり潰したいよね〜」
「あのっ、」
「いまからアメリカ行きの航空券六枚ぶん、買ってしまおうか」
「……赤司くんまで」
 黒子が口をはさむ間もなく、黄瀬と紫原、赤司の続けざまにたたみかけられる。そのうちの赤司にいたっては、爽やかすぎるくらい晴れやかな笑みをその顔に浮かべていた。言葉を尽くせず困り果てている黒子を、可笑しく、そして可愛らしく見ているに違いない。
 言葉数では勝てないと踏み、口を真一文字に結んだ黒子にじいっと見られると、赤司はイタズラを詫びるように片手を上げた。
「もちろん冗談だよ」
 赤司が言うと、その場にいる何人かが微妙に残念そうな顔をした。それを見た赤司と黒子はふたり目を合わせたあと、ふふっ、とそろって笑った。
 ふと、赤司が空を仰ぐ。
「だからと言ってオレもこのまま火神大我を放っておくつもりはないよ」
 さまざまな表情を浮かべた五つの顔をぐるりと見回して、赤司は確信的に言い切った。
「選手ならば決着はバスケで、だろ」
 すぐさま緑間がふんと鼻を鳴らす。
「ん〜、ちょっとめんどそうだけど、いいんじゃない? 黒ちんも泣かされたぶん、火神のことぼこぼこにしてやったら」
 黒子の頭を撫でながら紫原が言う。
「ボクは泣かされたわけじゃありませんってば、紫原くん。でもそうですね、はい、それなら少しわくわくしてきました」
 黒子も最後には目を輝かせていた。
 青峰は目を細めてそっぽを向いた。
 ついに黄瀬が弾けんばかりの笑顔を浮かべて、飛び上がる勢いで両の腕を突き上げる。
「よォし!! そうと決まれば、いまからこのメンツでバスケしに行かねえっスか? ねっ、ねっ?」
「え〜、いまからあ?」
「なぜそうなるのだよ」
「オレは黄瀬の考えもいいと思うよ」
「でしょっ? さすが赤司っち!!」
 結局、赤司が言うのであればと話がまとまったところで、黄瀬はそんな紫原と緑間の素直な反応に納得がいかず喚いていたが、このままバスケコート場へ向かうことに決まった。
 その道すがら、最後尾を歩く黒子の隣に、不器用な距離を保って青峰が並んだ。涙痕をいち早く見つけられたときから、彼の様子が何か思いつめたような重たいものになったことを、黒子は知っていた。しかし、自らはそれに触れず、青峰が自分から話すのを静かに待った。
 中学生で出会ったころから、お互いの立つべき場所が変わってしまった現在も、ふたりの関係は、まるで一本のつたない線の上にあるような危うい、けれどだからこそ互いを信じ合って形作られてきた。言葉にしなければ伝わらない、しかし口に出ないところで、肌で、空気で、自然と息を吸うようにそれを感じ取ってきた。
 それがかつての『光』と『影』だ。
「……ごちゃごちゃ考えてたけどやっぱダメだわ」
 やがて観念した青峰が口を割った。耳の裏をスッと撫でるような低く掠れた声だった。
「やっぱオレは火神のヤローに先越されたことが癪だから、このまま黙ってあいつに負けてやるつもりはねえ。あとやっぱりオレは、お前と、お前らと同じチームで試合して……あらためてバスケが好きだと思わされた」
 黒子は青峰の横顔をずっと見つめていたが、青峰は意地でも黒子のほうを見なかった。
「オレは近い未来、アメリカに行く」
「はい」
 黒子はゆっくりと瞳を瞬かせてから、そっと相づちを送り返した。
 青峰の言葉は、例えば星空を見上げ、漠然と宇宙飛行士になる夢をかかげる少年のようにも思えた。何の算段もない。ただただ青臭く、単純で、幼稚にさえ取れる、だからこそ、その純粋さが眩しく際立ち、美しく輝く。
 そしてその夢をつかむために必要な才能が彼にはあることを、黒子は嫌というくらいわかっていた。
 そこでようやく青峰が、黒子を振り向いて言う。
「お前、そのときも泣くか?」
 眉間に皺を寄せてよっぽど難しい顔をしている。気になるところはそこなのかと、黒子は笑ってしまいそうになった。けれどそれを飲み込んでひと言。
「さあ、どうでしょうね」
 その瞬間、ふたたびゴウッと吹き抜けた風が、黒子の目尻に溜まった滴を、攫って去っていった。


2017.04.11(世界がはじめて泣いた日)