テキスト | ナノ

 夕方、回避しようのない帰宅ラッシュに駅の券売機前は人でごった返している。しかも何となくいつもより人が多いように見えた。そいつらが口々に、自分勝手に話しているもんだからガヤガヤとした喧騒が嫌でも耳に入って神経を逆撫でる。さっさと家に帰りてえって思う気持ちはオレの中ですぐに膨れ上がった。けれど切符が手元にないんじゃどうしようもない。仕方がないからオレはそこの最後尾に並んだ。
「やあ、こんにちは、青峰くん」
 途端、すぐ隣の列から挨拶をされ、名前まで呼ばれた。誰だと思いながら目を下げる。あっ、と声が出た。
「火神のにーちゃん」
 いきなり声をかけてきたそいつは確かに見知った顔だったが、知り合いではなかった。紫原の高校の元センパイでさっきオレが言った通り、火神の兄貴的存在らしい。詳しくは知らねえし名前もあんまり覚えていない。だからとりあえず火神のにーちゃんと呼ぶことを、オレは勝手に決めていた。
 そんな相手が自分に気づいて話しかけてきたことにじゃっかん面食らいながら、オレは、
「ちわっす」
 と軽く挨拶を返した。
「こんなところで会うなんて奇遇だね」
「ああ、まあ、そうっすね」
「それにしても混んでるね」
 いつになったら買えるのかな、切符。そう言いながら火神のにーちゃんが前を向くのにつられて、オレも黙って顔を上げる。オレが並んだ列の遠くに見える先頭では年取ったじいさんばあさんがのんびりと小銭を何枚も投入し続けていて、火神のにーちゃんの列の先頭では派手な頭をした男女のグループが何やらギャアギャア言いながらいつまでも笑っていた。オレは後半のヤツらが気に入らなくて舌打ちする。
「マジ余所でやれよ」
「そう思う気持ち、わかるよ」
 独り言として吐いた悪態にすぐに答えが返ってきたのにも驚いたが、それが肯定的だったことにも驚いて、へえ、とオレは声を上げた。しかも、あれだけ賑やかだといいかげん周りの迷惑だよね、とオレの考えを読んだかのように付け加えてくるからオレはもう一度、へえ、と言った。そうしたら、火神のにーちゃんはオレのほうを見てクスクス笑った。
「そんなに意外かな?」
「アンタのこと、ただの優男かと思ってたからな」
「そうなんだ。でもオレは、彼らにこれ以上あそこに長居されるようなら実力行使で退いてもらうしかないのかなあって、ずっと考えてるよ」
「ジツリョクコウシ?」
「これに訴えるってことさ」
 そう言って虫も殺さないような笑顔の前に、かたく握った拳を持ち上げる姿は違和感ありまくりだ。そのギャップにオレが何とも言えずたじろぐと、火神のにーちゃんは拳をパッと開いて手首をぶらぶら軽く振って見せ、それを大人しく下ろした。
「ところで青峰くんはこれから帰宅かい?」
「ああ、まあ、そうっすね」
「そうなんだ。オレも、今から帰るところなんだ」
 そこで会話は途切れた。オレの列の先頭にいた老人夫婦がやっと退いて券売機がスムーズに動くようになったからだ。挨拶もそこそこに火神のにーちゃんとだんだん距離が離れた。オレはもう振り返らずに、切符を買うための金を取り出しはじめる。
 そこでオレは思い出した。今朝、家を出る前に親に言われた言葉。今日、私たち旅行で遅くなるから夕飯はさつきちゃんに作りに来てもらうように頼んでおいたからね。そう言っていたのをここに来て思い出して、同時に幼なじみのあの殺人的な料理も一緒に思い出した。
 あっ、やっぱオレ、帰りたくねえ。


2014.10.06(笑顔と拳と殺人料理と俺)