テキスト | ナノ

 ヤバい、ヤバいヤバい。
 そればかりを心のなかで繰り返しながら、火神はマンションの階段を駆け上がっていた。いつもより道の横幅が狭く感じるのはきっと勘違いではない。そうだから火神は頭から血の気が引くのを、嫌でも覚えないとならなかった。
 間もなく自宅前へ着く。ドアを蹴破る勢いで押し開けると、火神は部屋で自分を待っているはずの愛しい名前を乱暴に叫んだ。
「タツヤ!」
 気がついた瞬間からあまりにも長い時間を全力で疾走していたせいで、息が詰まる。玄関先で重なる自身の荒い息づかいにますます嫌気がさしたが、なかなか動けずいると、奥のほうから氷室がようやくひょっこりと顔を出した。
「どうしたんだ、タイガ。そんなに慌てて」
 エプロンを身にまとい、左手に持ったフライパンの中身を菜箸で掻き回しながら現れた氷室は、しかし目の前に広がる異様な光景を見るや、髪に隠れない右目を丸くし、フライパンと菜箸を両手にしたまま動きを止めた。
「Wow , really ? タイガ、お前、いつからふたりになったんだ」
 すべては氷室の言ったとおりだ。いま膝に手をついて息を整えようとする火神のとなりには、まったく同じ格好をしてまったく同じ動きをして、まったく同じ顔までした、正体不明の人物がいるのだ!
 出先からマンションへ帰る途中、気がついたときにはもうこの状態だった。これを見た人はみんな、火神大我がふたりいると言うだろう。しかし火神はそんな馬鹿げたことは認められない。だって本物の火神大我は、正真正銘、自分だけなのだから。
「騙されんなタツヤ! 本物はオレだ!!」
「騙されんなタツヤ! 本物はオレだ!!」
 同じ声とセリフがステレオのように、右から左から流れる。そのことに、火神の心がますますヒートしていく。
「ふざけんな! オレだろ!?」
「ふざけんな! オレだろ!?」
「はあ? てめっ、この野郎!」
「はあ? てめっ、この野郎!」
 いよいよ互いの襟首をつかむ。自分と同じ顔をした相手に感触があることに気味の悪さを覚える。けれどそんなこと言ってられない。ここで競り負けでもしたら、こっちの意地とプライドが許さない。
「まあまあタイガ」
 一触即発の雰囲気を一気に削ぐようなのんびりした声音で、氷室が割って入った。自分が氷室を振り返ったら、もうひとりの自分も氷室を振り返る。火神はもう、何が何なのか分からなくなってきた。
「今日はせっかくお前の誕生日なんだし。ほら、タイガの好きな海鮮パスタ。お前がたくさん食べるからって少し作りすぎたと思ってたところなんだ」
 氷室はもう一度、ほら、と言ってフライパンのなかを見せてくる。たしかにたっぷりの海の幸がのって、美味そうな匂いをさせている。火神は、氷室の作る海鮮パスタが好きだ。
「祝う人間がふたりになることは予想外だったけど誕生日は大人数で過ごすほうが楽しいだろ?」
 にこにこと氷室の無邪気な笑顔に微笑まれてしまえば、火神の心はグッと絆される。氷室の言うとおりにこの異様な光景を受け入れてしまうべきか、断固として拒否し続けるべきか、火神が必死で葛藤しているそのとき。となりで影がゆらりと蠢いた。
 もうひとりの自分が玄関を踏み出す。ためらいなく氷室へ近づく。ふたりの火神が初めて違う動きをした瞬間だった。
「おいっ、お前、なにを……っ」
 火神が偽物だと思っている自分が氷室のもとへすり寄って、氷室を抱きしめる。そのまま顎を指に絡め取って顔を上に向けさせる。
 キスするつもりだ、火神はそう思った。それは、ふだん自分が氷室の唇にキスするのと同じ動きだったから、火神には彼が何をしようとしているのかが手に取るように分かった。
 分かったとき、火神は自分の背中に悪寒が走るのを感じた。自分と同じ顔をしているとは言え、氷室が自分以外の男にそうされようとしていることがどうにも我慢ならなかった。
「やめろ! タツヤはオレのなんだよ!」
 そう声を荒げて氷室の身体を自分のほうにぐいっと引き寄せた瞬間、勢いあまって火神は氷室と一緒にドアの外へ投げ出された。
 あっと思う間もなく視界がブラックアウトする。


「タツヤ……!」
 なんとか氷室だけでも落ちる衝撃から守らなければと思った火神は、力いっぱい叫んで、身を起こした。腰のあたりで何かがぎしりと軋む。見れば、そこはベッドの上だった。
「は、あ……?」
 火神はいままでずっとこのベッドの上で眠っていた。つまりあれは、すべて『夢』だったのだ。
 火神がひとりで呆けていると、となりで何やらもぞもぞと動いた。まさかと思って心臓が痛くなるのを押さえながら振り向けば、氷室が髪に隠れた左目を手で擦りながら起き出していた。
「タイガ、朝からそんな大声出してどうしたんだ」
「ああっ、いや、その……悪いタツヤ、起こした」
「いいや、ちょうどいい時間だよ」
 言われてサイドテーブルにあるデジタル時計を見れば時刻は現在、七時半だった。
「タイガ、今日出かけるんだろ? そろそろ起きて準備したほうがいい」
「ああ……そうだな」
 窓から差す朝陽の隙間に浮かぶ、氷室の微笑を見る。柔らかな日常。自分がふたりいるなどという非現実は、ただの悪夢だったのだ。
 そう確信して安心した火神がベッドから腰を上げようとしたとき、氷室が言った。
「今日はタイガの誕生日だからお前が好きな海鮮パスタ、たくさん作って待ってるからな」


2016.08.02(非日常なんてすぐそこよ)