「あっ」 部活の帰り、黒子が立ち寄った本屋の自動ドアをするりと抜けて外へ出たとき、短く上擦った声に出迎えられた。耳に残るはっきりした声だったから、思わずそっちを振り向いたら、高尾がいた。店先でずらりと煩雑に列を作る自転車のひとつに跨がろうとしている。 「よ! 黒子じゃん」 「高尾くん」 高尾は、よいしょっ、と言ってサドルを跨ぐと、アヒルが水掻きするように足の裏で地面を撫でて、すぐに黒子の側まで寄ってきた。 「なに、お前いま帰りなの」 「はい。高尾くんもひとりで本屋に?」 「そっ。真ちゃんってば部活が終わるなりオレを置いて先帰っちゃうんだもん、薄情だよなまったく」 そう言いながら、高尾は怒るわけでなく、むしろ愉快そうにからからと笑った。高尾がハンドルに腕をかけて、身体を前に傾ける。 「つうか、お前の家ってどっち方向?」 聞かれて黒子は、小さく首を傾げた。 「ボクですか? ボクはあっちの方面ですけど、どうしてそれを?」 「いや、なんだったら送ってやろうかと思ってさ」 高尾が自転車をぽんぽんと軽く叩きながら、あっけらかんと言う。黒子は空色の瞳を丸くして、でもそれは、と口を開きかけたけれど、途端手のひらでそれを制される。 「オレも向こうだからついでだよ、ついで。いつもなら負けたほうがチャリ漕ぐことになってんだけど今日はなしでいいぜ、じゃんけん」 こぶしでグーを見せたあと、高尾はその手で自転車のうしろをぐっと指さした。そのとき黒子は初めて、自転車に、馴染みの大きなリアカーが今日は引かれていないことに気づいた。 「そう言えば今日はついてないですね、リアカー」 ぽつんと言葉を落としたら、高尾は腹を抱えて笑うことでそれをすくった。いつもやってるわけじゃねえよ、と笑いの隙間から切れ切れに言って、またぎゃははと笑う。その衝撃で前輪がよろっとなるのを見て、黒子はすこしだけ不安になった。 「そんじゃあしっかりつかまっとけよ?」 高尾のうしろに黒子が跨ると、いよいよ自転車が動き出す。自転車のふたり乗りなんて危ないし、普段ならやろうとも思い立たない。後輪の横の小さなでっぱりにかける足、高尾の肩を握る両手に自然と力が入る。 「こわかったらぎゅーって抱き着いてもかまわないんだぜ?」 くっくっと笑って、高尾が茶化してくる。黒子はむっと唇をちょっと突き出した。 「……遠慮しておきます」 道が進むにつれて自転車は加速していき、最初ぐらついていた車体は完全に安定したようだ。それがわかると、黒子の身体からも緊張が抜ける。まわりを見る余裕さえ生まれた。 空はすっかり夜の色だ。星はすこし見えにくい。探そうとしても景色がどんどん流れていって、上手くいかない。 耳のすぐ先で、ビュービューと風が鳴る。顔に全身に、風が容赦なく吹きつけてくる。まるで風の壁に切れ目を入れてそのなかをむりやり突き進んでいるみたいだ。けれど自転車は加速を止めず、ぐんぐん先を行く。それがなんだか勇敢なように思えた。 風にさらされて高尾の黒い髪が襟元でぱらぱらと遊んでいる。ときどき手の甲に触れてきて、擽ったい。けれど、嫌だとは思わなかった。 高尾の髪、肩、風も、黒子に触れるすべてのものが心地よく感じられる。ひゅんひゅんと自転車のタイヤの回る音ばかり響くなか、黒子はすこし考えて口を開いた。 「今度は」 「んー?」 聞こえづらいのか、高尾が顔をちょっとうしろに振り向ける。黒子は、高尾の肩に置いた手と、腹に力を入れた。 「今度は」 「ああ、うん、なに?」 「じゃんけん、しましょう、高尾くん」 高尾がハッと息をのむ気配がした。そのまま黙って顔を正面に戻してしまう。ははっ、と軽い笑い声が聞こえた。 「それってさあ、またオレといっしょに帰りたいってこと?」 黒子は高尾の耳裏にそっと顔を寄せて、唇で答えを落とした。 2016.07.22(口ずさむ二人乗り自転車) |