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「…ハエナガ…」
名前の唇が憎い男の名前を呼ぶために形を歪める。
当の蝿永は何が起きたかわからないとただただ投げ飛ばした木材を四つん這いになって探す。
「てめぇ、何しやがった!?」
「ハエナガ」
その問いに答えることはなく、名前はゆっくりと歩みを進める。
蝿永はその様子に若干の恐怖を覚えたようで、まるで尻餅をついたような形で名前を見上げていた。
「ハエナガ」
まるで壊れた人形のように、名前は男の名前を繰り返した。
憎悪の奥に浮かぶ、ぼんやりとした何かは、過去の事件でも映し出しているのだろうか。
「…?お、お前、あん時のガキか!?」
「…ハエナガ」
少し間を置いて、名前はまた男の名前を呼んだ。
まるで私が見えていないように、名前はゆっくりと歩みを進め、腰を抜かしたような蝿永と視線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「ハエナガ、覚えてる?私、覚えてる?」
やっと文章になって紡がれた言葉。
蝿永は頷いた。相手が女ということをだんだんと理解してきたようで余裕すら感じる。
「あ、ああ、覚えてるぜ。“名前チャン”随分綺麗になったな?俺が忘れらんねぇのか?いいぜ?またあいつらと…「いないよ」
名前は蝿永の言葉を遮った。
…待て、何故いないと知っている?彼らは私が殺した。彼女に内緒で。
「彼らは、もういない。あなただけ。あなたは私が殺さないと、じゃないと終わらないの」
私にはしゃがみこんだ名前の背中しか見えないが、蝿永の表情から随分と殺気に満ち満ちた目をしていることは確かだった。
その様子を、私は静かに見つめる。
ここまできたんだ。名前に任せよう。
「お、おい吉良!こいつ、こいつヤベぇぞ!?さっさと殴って黙らせ…」
「こいつ…?名前のことかい?名前は素晴らしい恋人だよ。君らの友人は実に反吐が出るほど最悪で、この世の害悪としか思えないクズばかり…わざわざ手を下さずとも死んでたかもしれないね」
「お前…!?人殺しかよ!?くそ、こいつらイかれてやがる…!!」
蝿永は懐から携帯を取り出した。
あらかた警察に連絡を、というところだろう。
しかし、名前のチェネレントラの刃が携帯に突き立てられ、綺麗に灰となって消えた。
蝿永は理解しがたい状況に、腰を抜かしたまま後ずさりする。なんて滑稽な姿だろうか。
酷く滑稽なその男は、次に大声を上げようと口を開いた。
飛んで火にいる夏の虫。いや、この場合逆なのか?まあいいか。
大きく開けた口に、チェネレントラはまたも刃を突き立て、言葉を舌を、そしてどうやったのか声帯までも灰に変えてしまったらしい。
声にならない叫びをあげながら、男はダラダラと口から灰を零す。
「私は、部分的に灰にできるの。喉まで突き立てたから声帯までちゃあんと届いたね、よかった。あなたの声、もう聴きたくなくて」
名前はなおもしゃがんだまま蝿永に声をかけた。
異常な脂汗をかいた蝿永は逃げればいいものの、近くに落ちていた鉄パイプを、気力の限り持ちあげ、名前に振りおろした。
それは一瞬だった。
鉄パイプごと、蝿永の右手は灰になり、驚き、壁についた左手もサラサラと灰になってしまった。
痛覚、はおそらくあるのだろう。
だらしなく口をあけ、必死の形相で、次は逃げる道を選んだ。
まったく、愚かなものだ。
一歩踏み出すたびに奴の足は徐々に灰になり、気づけばごろりと地面に転がった。
「ねえ、助けてほしい?もうやめてほしい?」
名前は倒れこんだ蝿永を覗き込んだ。
必死で頷き、涙や鼻水をこれでもかと流しながら許しを請う。
「私、あの時もそうだった。ずっとやめてって、助けてって、ずーっと言ってたのにやめてくれなかったよね?」
覗き込んだ名前の顔は、今まで見たことないほど、どろりとした悪の感情に満ち満ちていた。
「だから、やめてあげない。…バイバイ、ハエナガ」
名前はその白く細い足で蝿永の顔を踏む。
そして
店の裏に風が吹き込み、そこには私と名前だけが残った。