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家に帰ると、明かりはついていなかった。

胸の奥を何かザラザラとした不快なものが舌を這わせる。
名前に何かあったのか?一体何が

言い知れぬ不安感の中、玄関の扉に手をかけると、扉は驚くほどすんなり開いた。
つまり、彼女が帰宅していることを示唆している。
“吉影さんの家ですから”と、戸締りには細心の注意を払っている彼女なのだから。

玄関には彼女が買ってきたであろう買い物袋が無造作に置かれていた。

襲われた?

いや、彼女に限ってそれはないだろう。
残念なことに、殺傷能力的な意味では彼女は“強い”
襲われたところで返り討ちにするだろうし、何かあれば私に連絡をしてくるだろう。

つまり、連絡出来ない“何か”が彼女の身に起きたのだ。
彼女自身の問題…急激な体調不良だろうか。となれば一大事だ。

私は買い物袋を横目に家の中の彼女を探した。



そして、本来なら横になる場ではない、“お手洗い”で彼女は意識を手放していた。




何が原因かわからない。
本来なら救急車、なんて大事にするのは御免だが、彼女のことだ。
もし、万が一、彼女に何かあれば私は一体どうなるんだろうか。…考えたくもない。

気がつけば119番をコールし、嫌に落ち着いたコールの女性に自分の住所を伝えていた。



















暖かい、柔らかい…これは、ふとん?

重い目蓋を押し上げて、私は眩しいほど白い天井を見やる。
視線を泳がせれば左側に点滴のカートが、そして右側には


「名前、目が覚めたかい?」

「吉影、さん?」

ひどく安堵したような表情の吉影さんがそこにいた。

そして、思い出した。

「名前?」

顔色が文字通り変わってしまったのだろう。
吉影さんは、私の手を握り心配そうに顔をのぞき込んできた。
ああ、こんな表情はさせたくない。
胸の奥から黒く不快な何かがドロりと溢れ、じきに棘を持ち突き刺さる。
言い知れぬ精神的な苦痛に顔を歪ませながら、私はこうなった理由をどう話そうか思考を巡らせた。

「お医者さんが言うには極度の精神的な圧迫による嘔吐と言っていたけれど…話したくなるまで話さなくていいからね。あと、会社はしばらく休むといい」

「え!?」

“会社”という単語に私は思わず顔を上げた。
吉影さんは相変わらず心配そうな顔をしながらも微笑み、まっすぐ私の瞳を見てくれた。

「あまり公にするつもりはなかったが…部長に理由を話して長期療養を申請した。過度のストレス、に関しては…同僚の女性陣からの陰湿な行為も原因の一つとしてあげさせてもらったから情報が漏れることはない。僕と同棲しているということは伝えていないけれど、“そういう仲”であることは、まあ伝える他なかったがね」

「そんな…ごめんなさい、吉影さん目立ちたくないのに…」

そういえば、吉影さんは、やれやれと言いたそうに首を振ると、私を腕の中に閉じ込めた。
点滴に差障りのないよう、あくまでも優しく。

「君の体の方が心配だ……、私なんてただの我が侭だから気にする必要はないよ」

嗚呼、なんて優しいんだろう。
自分の頬を伝う温かい心地よさに私は静かに目を閉じた。








結局、大事をとって一晩病院のお世話になることにし、吉影さんは一晩だけ、と病院の先生に無理を言って泊まることになった。
私と吉影さんの様子を見て、彼が私の処方箋となる、と判断し事も要因の一つではあるけれど。

有難いことに、個室を割り当てられていたので、時折、脈絡のないキスを互いに求めながら夜更けを迎える。
今どきでもいるのだな、と思える“走り屋”の爆音に苦笑しながら、青白い月明かりに目を細める。

「……吉影さん」

「なんだい?」


話そう。
彼に、全てを。


「私を襲った男を、見かけました」

ひどく、そこにはひどく驚いた顔をした吉影さんがいた。
私はどこで襲われたといった話はしていない、だからこそ、この杜王町で犯人を見かけるというのは、彼にとって露ほども考えたことのな衝撃的な事実だろう。


「君は、杜王町にいたのか…?」

「はい、学生時代まで、ここで過ごしました。他県に就職はしたんですが、今回本社があるこちらに“戻って”きたんです」

答えると、吉影さんは複雑な顔をした。
私自身が黙っていたという事実が彼を苦しめているのは一目瞭然だったし、それがまた申し訳ない気分にさせる。

「そうか…よかった…」

彼は、“よかった”と言った。
私の回答のどこに安堵する要因があったのだろうか。
次は私が困惑した表情を見せる。

「君のことだ、どうせ話すことを“忘れて”いたんだろう?私に話してくれたときはここまで距離が縮まっていなかったし、無意識に“そこまで話すことはない”と思っていたんじゃないか?」

きゅ、と私の手を握る吉影さんの力が強くなる。
その優しい感覚に私は笑みを溢した。ああ、どこまでもこの人は。

「そう、だと思います。話す必要性を感じていなかったのだと…」

「その様子だと、色々と思い出してしまったのだね」

獲物を狙った梟のように鋭い眼光は、妙に月明かりを湛えながら私を貫いた。
否、私ではなく、私の後ろにいる、かくもトラウマを植えつけた男達を射抜いていた。
口元にだけ笑みを含む彼はどこまでも妖艶で美しくて、思わず食べて欲しいとまで口走りそうになるが、ぐっと堪えて頷くだけに留まる。

「でも、今は休むことに専念してくれ。まあ、ここまで聞いたからには最後まで聞かせてもらうがね」

きっと、彼は無理強いをしないだろう。
私が閉口すれば、彼は待つ。そんな妙な確信があった。

にしても、ここまで自分が他人を信用する日が来るとは思わなかった。
きっとそれは、彼にとっても同じだろう…と勝手に自惚れる。
あまりにも凸凹すぎるパーツを持ち合わせた私たちは、世間から逸脱し、他のパーツを攻撃して生きてきた。
無理やりに居場所を作るかのように犯罪を重ね、生きてきた。
でも、お互いの凸凹がとても綺麗に合わさった私たちは、自分の欲求を他人の命を奪うことなく、こうして傍にいられるのだろう。


あまりの愛おしさに彼の唇を掠めるだけのキスをする。

「っ、不意打ちのキスは、少々刺激が強いな」

照れくさそうに笑う彼は、きっと私しか見れないだろうに、実際に照れて同じく笑みを溢してしまった私の表情も彼しか見れない。
お互いの秘密を沢山知っている私たち。


すべてを貴方にあげるから、貴方のすべてが私は欲しい。














退院した彼女は、犯人らの名前と特徴を彼女は出来うる限り私に教えてくれた。
溜まっていたものを吐き出すように。

私は静かにそれを聞いた。
あまりにも淡々と話すので、また壊れてはしないかと心配で、言葉が途切れるたびに彼女を腕に閉じ込めた。


「今は、私がいる」


そう言えば、強張ったからだから力が抜ける。
ただただそれを繰り返していた。

いや、彼女にとってはそれだけかもしれない。
でも私は違った。

彼女から話を聞くたびに、その断片的な記憶をぽつりぽつりと聞くたびに、何千ピースもある憎しみのパズルを組み立てていた。
そう、目的は一つ。



彼らを殺すこと、だ。




彼女は長期療養で家にいる。
近くのスーパーに無理を言い、高齢者向けの宅配サービスを期間限定でうちにもしてくれることにした。
あの時、彼女を見ていた店員も少なくなく、寧ろ心配なのでそうさせて欲しいとまで言われた。
名前の人々を魅了する能力には目を瞠る。



そうして、彼女はゆっくりと室内で本を読み、時折庭に出て花壇の手入れを行い、食事を作る。
素晴らしい。
これこそ、私が彼女に望んでいた生活だ。
社内のブタ共にいいように言われるような女性ではないんだ。


そう、社内と言えば、私と彼女の交際は面倒なので明らかにした。
もちろんやっかみもあったし、彼女を陰湿にいじめていた女性らからの反吐が出るアプローチもあった。
私はなるべくその女性たちが“傷つくように”誘いを断っている。
日本語が通じないブタ達はめげずに声をかけてくるが生憎ブタの相手をするほど私は暇じゃあない。
さっさと良い養豚場でも見つけるんだな。














「遅くなる」

彼女にまた嘘をついた。
最近、私は遅くなる詐欺をよくする。
もちろん、浮気なんかじゃあない。
図書館に篭もり、夜の街を歩く、それだけだった。
図書館は過去の新聞を読みあさり、彼女の事件を調べるため、夜の街は犯人らを見つけるためだ。
変に聞き込みなどをしては怪しまれるので、冴えないサラリーマンをそのまま演じ、ひたすら酔っぱらいの相手をしながら情報を引き出した。


情報さえあれば簡単だ。
犯人を見つければ、臆することは無い。
ふらつくふりをして、ぶつかり、ぺこぺこと頭を下げて謝り、距離を開けて



カチッ




簡単だった。実に。
最初のターゲットは、そう、確か…


「井口」


酷く太った、とても醜い男だった。
こいつがあの名前に触れたかと考えるだけで虫唾が走る。
まあ、始末は出来た。実に簡単で、軽作業だ。
ほんの一瞬相手に触り、スイッチを押す。
子どもでも出来る。


ああ、そうだ。
今日は彼女の好きなドーナツ屋にまた寄ろう。
小さなお祝いだ。












「吉影さん!おかえりなさい!」

「ただいま、いやに上機嫌だね?」

「はい!なんだか、ほんの数時間前なんですけど、スッと体が軽くなって…あの、お夕飯、食べちゃいましたよね?」

数時間前、とは井口がこの世から消えた時間だろうか。
まったく、彼女を生霊の如く苦しめるやつらだな。

「いや、食べていないよ。遅くなってすまない。これはお詫びだよ」

「え?あ!このドーナツ!いいんですか?」

「君のために買ってきたんだ。食べてもらわないと困るな」

「いただきます!あの、お夕飯も準備したので、その後でも良いですか?」

「もちろんだよ」

彼女特製のグラタンはとても美味しかった。
以前私が教えたホワイトソースの作り方を実践したんだと微笑んでいた。
ああ、私のやつより美味しいんじゃあないか?

夕食後は、私が買ってきたドーナツを食べ、彼女が好きだというドラマを一緒に鑑賞し、布団に入った。


「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


いい夢を。



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