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吉影さん、吉影さん、吉影さん
何度でも呼びたくなる愛おしいあの人。
まるで硝子細工を扱うかのように優しく私を抱いてれた吉影さん。
あの後、朝目覚めたらなんとも言えない、でも心地いい身体のだるさに笑ってしまった。
結局、どこかに出かけようって話をしていたのに、2人で遅い朝ごはんを取ってから読書にふけってしまった。
今日、彼は遅くなる。
「すまない」
だなんて、申し訳なさそうに眉を下げる彼を思い出して、私は足取り軽く街へと繰り出した。
「お夕飯、作りますからお腹をすかして帰ってきてくださいね」
私の言葉に微笑んでくれた彼を思い出して顔をにやつかせる。
よく聞く“好きな子はいじめたくなる”ってやつはまさにこれだと思う。
いつも、一枚も二枚も上手な彼に困り顔をさせれると、なんとも嬉しい気分になるのだ。
でも、彼に困らされるのも好きで…
結局のところ私は彼が大好きなのだ。
さあ、お夕飯はロールキャベツにでもしようかな?
パスタを爪楊枝替わりにするってのを先日聞いたばかりだし、試してみよう。
うーん、メインはロールキャベツでも他はどうしようかな…
「本屋行こう…」
こういう時に、料理下手なのは困る。
有り合わせでちゃっちゃと作るなんて未知の領域だ。
“簡単おかず100選”だなんて本を読みながら付け合せを考える。
うーん、迷うなあ…。
とりあえず、値段も手頃なのでこの本を購入するとして…吉影さんの好きな作家さんの新刊があったはず!
買っていったら喜ぶかな?
ふふ、買っていこう。
行きなれた本屋の新刊コーナーに足を向ける。
作者の名前を思い浮かべながら新刊の表紙を見て…見つけた。
これだこれだ、と手に取って足早にレジに向かう。
若い可愛らしい女性の店員さん。
前までは、なんとも言えないくらい嫉妬にも似たどす黒い感情を抱いたものだけれど、今はこの子にも幸せになって欲しい、なんて思っている。
人は変われる。
とても幸福な気持ちに包まれながら私は本屋をあとにした。
近所のスーパーは、もう行きつけと言っていいほど通いつめている。
レジのおばさん達は皆さんとてもいい人で、仮に仕事を辞めたとしたらここで働きたいとすら思う。
「あら名前ちゃん、今日は旦那さんはいないの?」
「だ、旦那じゃありませんよっ」
「あら、ふふふ」
よくこういった風にからかわれているけれど、それもまた嬉しくて…
必要な材料をカゴに入れレジに向かう。
「今日はロールキャベツかしら?」
「はい!」
「美味しそうねぇ」
「フミエさんの得意料理ってなんですか?」
「私はコロッケかしら」
「わあ!今度教えてください!」
「もちろんよ!」
なあんて、レジのおばさんとの会話を楽しんで私は店を出る。
そう。出るつもりだった。
どん、と肩に衝撃が奔り、私はよろめいて転倒した。
卵買ってなくて良かった、と安堵しながら私にぶつかってきた人物を見上げる。
30そこそこの見た目に対して、革ジャンやダメージジーンズなど時代錯誤もいいところと思わせる出で立ち。
彼は私に謝りもせず、寧ろ“邪魔だ”と捨て台詞を吐いた。
男の後に、とてつもない香水の匂いをさせた巻き髪の女が続く。
「旦那に色目使ってんじゃねーよ」
キッと睨まれたが私は言葉が出てこなかった。
店内に消えていく、その不可思議なカップルから目が離せなかった。
「、名前ちゃん、名前ちゃん大丈夫!?」
外で品の整理をしていたカズヨさんが慌てて駆け寄ってきた。
「ひどい顔色よ?なにかされた?どこか痛い?」
何もされていない、そう、…“今は”
結局腰を抜かしてしまった私は配達車に乗せてもらい(ユキヒロおじさんありがとう…!)、家まで送ってもらった。
そう、私は数年ぶりに出会ってしまった。
下劣な笑みを浮かべて、私を犯した男に。
不思議なもので、私は過去の記憶を恐ろしいほど鮮明に思い出した。
あいつらが、どの順番で私に触れ、犯していったかのでさえ。
話す気力も、泣く気力も、もしかしたら生きる気力ですらなくしていた私は、突き上げられる不快感にひたすら耐えていた。
明るい髪をした線の細い男“コトジマ”
髪を長く垂らした眼鏡の男“ヒキタ”
太っていて、脂が常に顔に滲んでいた男“イグチ”
そして、先ほど出会った首筋に刺青のある男“ハエナガ”
この4人が、この4人が私の人生を壊したんだ。
恨まずにいれようものか。
私は恨むより前に、心の傷を消すため忘れることにしたのだ。過去の出来事を。
でも、思い出した。
あの目、あの口調、すべてが変わっていなかった。
「うぐっ…」
せっかく買った材料を玄関に置きっぱなしにし、急いでトイレに駆け込む。
ゲェゲェと、出せるものを吐き出すも、吐き気は止まらず、ただ胃液が体外に吐き出された。
私は、この春“地方”から転勤になったけれど、実際のところ2県ほど隣の県にいただけだ。
しかも、地方に就職する前は…私が襲われたのは他でもない、この杜王町での出来事だった。
学生まで無理やり過ごした、住み良い街杜王町。
未練はあったが、少しでも“私生活”では離れたいというのが本音で、私は別の県の会社に入った。
でも殺しは決まって杜王町で行っていた。
無意識にあいつらを探していたからだろう。
まさか本社配属になり、杜王町に戻るとは思わなかったけれど、これも何かの縁だと腹を決めていた。
「う…」
気分が悪い。
吐き気があっても吐けるものもない。
頭が痛いが本当に痛いのかすらわからない。
不快感だけが、私を包む。
「吉影さん…」
愛おしい人の名前を呼ぶ。
すると、どうだろうか。
どろりとした不快感の中、薄れゆく意識の端に…確かに暖かい光が見えたのだ。
帰り道。
今日は面倒なことに車検で車がなく、タクシーと電車を使っての通勤となった。
思った以上に仕事が早く片付いたので大急ぎで駅に向かう。
しかし、事故ということで運転見合わせ・・・なんとついていない。
家に帰れば愛しい名前が待っているというのに…。
「そうだ」
彼女の好きなドーナツ屋に行こう。
遅くなった侘びを持っていこう。
しかし、人気店だし、あまり良いのは残っていないだろう…特に彼女が好きなドーナツは。
駅から少し歩けばお目当てのお店を見つける。
中に入れば
「おや」
「いらっしゃいませ」
「これは…珍しいね」
“5個入りBOX 500円!”と大きく書かれたポップの下には3箱ほど置いてあった。
「人気店なのに、これは珍しい…作りすぎてしまったのかい?」
なんとなく店員に質問すると、苦笑しながら真意を教えてくれた。
「近くにバターカップケーキの専門店が近くにできましてね…お客を取られちゃってまして」
「なるほど」
「お兄さん、よく来てくれますよね。ドーナツお好きなんですか?」
名前と同じくらいか…いや、もう少し上ぐらいに思える男性店員は依然ニコニコ笑みを称えたまま質問してきた。
「彼女が…ここのファンでね。この5個入りの箱、1つもらえるかい?」
「おお!彼女さんが!って、こちらですね。かしこまりました!」
とても感じのいい店員だった。
「あ、彼女さんがお好きなドーナツってどれですか?」
「ん?ああ、イチゴのクリームが挟まったやつだよ」
「お!じゃあおまけしておきますね!」
「え!?」
彼はラスト1個のイチゴクリームドーナツを器用に箱につめた。
「俺も、今日用事が早めに閉めるつもりなんです。実は女房の誕生日で…」
「君は、ここの店主なのかい?」
「そうです!昔からドーナツが大好きで、もっとたくさんの人にドーナツを食べて欲しくて店を開いたんですよ!うちのファンだなんてすごく嬉しいです!」
“はい!500円になります!”と商品を私に渡す。
「今度は是非彼女さんも連れてきてくださいね、小さいですけどイートインスペースもあるのでどうぞご利用ください」
「ああ、是非。ふふ、これで遅くなったことを彼女に咎められなくて済むよ」
「それはよかった、お気をつけてお帰りください」
「ああ、君の奥さんも誕生日おめでとうと伝えてくれ」
「ありがとうございます!!」
とても、いい気分だ。
今までどうでも良かった、灰色だったものが、彼女のお陰で色づいてきている。
ドーナツなんて、今まで買うことすら考えたこともなかった。
それがどうだろうか。
『あそこのイチゴクリームドーナツだ本当に美味しくてほっぺたが落ちちゃうんです』
名前がそう笑えば、後日すぐに買いに行った。
彼女はとても驚いていたが、私もドーナツがこれほど美味しいものとは思わず驚いた。
新しい喜びは、すべて名前からだった。
さて、今日はどんな夕飯だろうか。