視界の隅にちらりと過ぎったのは、紅いミニスカートにすらりとした女の足とショートブーツだった。 りょうや九兵衛の話に相槌を打ちながら、妙は密かに舌打ちしたくなるのをこらえる。 ―――よりによって、今日はあの人が来るなんて。 「妙ちゃん、どうした?」 心配そうに覗き込んできた九兵衛に、妙は反射的に微笑む。 「なんでもないわ」 「‥そう、ならいいんだけど」 「でも、なんだか顔色が良くないんじゃない?」 「そう?昨日ちょっと夜更かししちゃったからかしら」 妙の額に触れようと手を伸ばすりょうに、妙は笑って手を振った。 「大丈夫よ。今日はちょっと新兄さんのところに寄っていくから、また明日ね」 「え、ちょっと」 「妙ちゃん!」 戸惑ったような2人の声にごめんねと心の中で呟きながら、妙はなるべく2人から離れられるように走りだす。 角をいくつか曲がりにぎやかな通りで人波に紛れ、妙はようやく足を緩めた。 体が重くて、冷たい汗が額に浮いている。 ―――今のうちに、向こうの目を眩ませないと。 呼吸を整えながら、すぐに妙は歩きだした。 奇妙な『鬼ごっこ』が始まったのは、金時の『友人』に会った時からだった。 初対面でいきなり腰に手を回され、側にいた金時共々殴り飛ばしてから、学校帰りに時々『お迎え』がやってくるようになった。 普段ならさりげなく金時や桂を呼び出したり、『お迎え』が男であれば適当にまいたり返り討ちにできるのだが、いつも紅い服を纏って『逃がさないッスよ』と低く笑う女は強敵で、手こずることが多い。 本調子でない上にその強敵が来たことで、妙は歩きながら携帯を引っ張り出した。 ―――さすがに今日は、金さんか桂さんを呼ばないとマズい気がする。 それとも、新兄さんの店に駆け込むか。 兄さんには心配を掛けたくないけど、理由なら何とでも… そこまで考えた時、コツコツと近付いてくるヒールの音に気付いて妙はすぐに走りだした。 チラリと後ろを振り返ると、艶やかな笑みを浮かべた女が同じように人波を泳いで追いかけてくる。 いつもよりも重く感じる足を叱咤しながら、妙は点滅し始めた交差点を走り抜け、飲食街の路地裏に滑り込んだ。 なるべく息を殺しながら、喘ぐように酸素を取り込む。 地面がぐにゃりと曲がるように感じて、妙は思わずしゃがみこんだ。 うまくまけただろうか。 あの距離なら、向こうは交差点を渡れなかったハズだ。 ―――早く、金さんを呼ばないと。 クラクラ回る視界に耐えながら携帯を握る妙の背後で、不意にジャリ、と音がして妙の身体が強ばった。 振り返ろうとした瞬間に口を塞がれて目を見開いたが、同時に漂ったタバコの匂いと耳元で囁く低い声に妙の体から力が抜ける。 「何やってんだお前、こんなとこで」 「ひじ、かたさん‥」 逃げ切れた、と呟きながら妙の視界は暗転していった。 すぅっ、と無意識に大きく息を吸い込んだ音で、妙はぼんやりと目を開けた。 見覚えのない天井を不思議に思いながら、妙は目を閉じる。 何で自宅ではなく、こんなところにいるんだろう。 体を暖かく包んでいる毛布が、柔らかくて心地良い。 ―――でもどうしてこんなにしずかなの? おかあさんと新にいは… その時静かにドアが開く音がして、妙はハッと我に返った。 白い天井と淡い浅葱色のカーテンが目に入る。 メタルフレームの眼鏡をかけた白衣の男が静かに歩み寄り、妙の様子を見て微笑んだ。 「気が付いたようだね。気分はどうだい?」 「…ここは…?」 ぼんやりと妙が男を見上げていると、男は妙の腕に血圧計をセットしながら窘めるように妙を見る。 「ここは七丁目の診療所だよ。君は突然倒れたって担ぎ込まれてきたんだ…ふむ、血圧が低いね。それに風邪気味のようだ」 手際よく血圧計を片付ける男に、妙はゆっくりと体を起こした。 吐き気は無いか、頭は痛くないかと尋ねる男に、妙は大丈夫ですと首を振る。 「あの…土方さんは?」 意識を失う直前に見た黒いスーツ姿を目で探す妙の様子に、男はメタルフレームの奥の瞳に笑みを浮かべた。 「ここにはいないよ。片付けなきゃいけない仕事があるらしい。終わったら迎えに来ると言っていたから、もう少し休んでいなさい」 「…すみません、ご迷惑をお掛けして」 妙が頭を下げると、男は笑いながらスポーツドリンクを妙に手渡す。 「構わないよ。それよりも水分を摂った方がいい」 「あ…ありがとうございます」 スポーツドリンクを飲んで一息付いた妙のベッドの側の椅子に、男は腰を降ろした。 「飲んだら、もう少し横になった方がいい。あぁ、君のカバンはそこに置いてあるから」 「はい」 そういえば今は何時だろうと、ベッドの傍らに置かれたカバンから携帯を取り出していると、ふいに男が口を開いた。 「君は志村君の妹君だろう?」 「えっ…」 驚いて妙が顔を上げると、男は笑いながら肩を竦める。 「僕は君のお兄さんのことをよく知っていてね。あぁ、不本意ながら土方刑事にもよく手伝いに駆り出されたりするんだよ」 「し…、兄のお友達なんですか?」 「友達というよりも知り合いだね」 男は優しく毛布を引き上げながら、妙に横になるように促した。 「君も大変だね」 男の言葉の意味を取りかねて目を瞬かせる妙に、男はそっと手を伸ばす。 「お兄さんに心配を掛けたくないのはわかるが、何も言わないと却って心配させることもある」 その言葉に妙は目を伏せた。 『鬼ごっこ』がなぜ繰り返されるのか、妙には理由が分からなかった。 あの『友人』とやらがその気になれば、こんな小娘を捕まえるのは恐らく造作もないことだろうに。 『お迎え』との『鬼ごっこ』で逃げ切る度に、次第にこれは『友人』の暇つぶしの戯れなのかもしれない、と妙は考えるようになった。 戯れならば兄に心配させることはないと思っていたが、その考えはやはり甘いのだろうか。 ―――でも、誰に相談すればいいのだろう。 結局妙は、小さく呟くことしかできなかった。 「…『鬼ごっこ』をしてただけ、です」 男の神経質そうな長い指が、そっと妙の目許を辿る。 「そうかい?それでも、夜はちゃんと眠った方がいい。休むべき時にはきちんと休まないと、今日みたいに倒れてしまうからね」 「はい」 妙がおとなしく頷くと、男も満足げに頷いた。 「全く、あの男達がこんなに執着するのも珍しい。なるほど、志村君が胃薬を手放せないわけだ」 「あの、何の話を…?」 「鬼ごっこの話だよ…、っと」 「その手をどけろ、伊東」 伊東と呼ばれた男が振り返るのと同時に、舌打ちしたそうな顔の土方が男の手を払った。 「おや、もう仕事はいいのかい?土方刑事」 「片付いたから来たんだよ。妙、気分はどうだ?」 気遣わしげに見つめる土方に、妙は微笑んだ。 「大丈夫です。すみません、ご迷惑を…」 身体を起こして土方と伊東に頭を下げた妙をポン、と軽く叩いて土方は妙のカバンを取り上げた。 「立てそうか?大丈夫ならこれから家まで送っていくが」 「えぇ、大丈夫」 「それならこれも持っていきなさい」 妙がベッドから降りると、伊東が妙に小さな紙袋を差し出す。 「何だ、それは」 怪訝そうに伊東を見る土方に、伊東は肩を竦める。 「3日分の風邪薬だよ。今夜あたりに熱が出て来るかもしれないからね」 伊東から薬を受け取った妙は、ペコリと頭を下げた。 「ありがとうございます。あの、お代は…」 「あぁ、今回は構わないよ」 伊東はにっこりと微笑みながら、立ち上がりざまに土方に低く囁く。 「猫にはちゃんと鈴を付けた方がいいんじゃないか?土方刑事」 「‥テメェに言われるまでもねェよ」 「土方さん‥?」 小さな声で見上げてきた妙に、土方は表情を和らげて妙を促した。 「何でもねェよ。あぁ、後で事情はキッチリ聞かせてもらうからな」 その言葉で妙の笑顔が強ばったのに口の端をわずかに上げ、土方はドアの前で伊東を振り返った。 「今回は世話になったな。認めたくはないが、助かった」 「どういたしまして。あぁ、妙君」 「はい‥?」 伊東に突然名前を呼ばれて驚いている妙に、伊東はにこりと微笑む。 「困ったことがあったらいつでもおいで。ヘビースモーカーの側にいると、いろいろと身体にも良くないからね」 「なっ‥!」 反論しようにも言葉に詰まった土方に、妙はクスクス笑いながら小さく頷いた。 覚えてろよテメェ!と伊東を睨みながら妙を外に押し出して、土方は荒々しくドアを閉める。 「『鬼ごっこ』ね‥相変わらず酔狂な男だ」 遠ざかって行く足音を聞きながら、伊東は低く笑った。 (081114) |