部活を終えてさあ帰るかとカバンを持ち上げた時、ふと数学のプリントを忘れたことに気付いた。 ――やべぇ。多分俺、明日当たるんだよな。 小さく舌打ちして、土方は教室へ戻った。 数学のプリントを回収してふと隣の席を見ると、椅子にカバンが座っているのが目に入った。 窓からはオレンジ色の西日が差し込んでいる。 まだ残っているのかと怪訝に思うと同時に、その席の主のことを思う。 志村妙。 両親を亡くしたその少女は、双子の弟と寄り添うように生きている。 いつもピンと伸びた背筋でいつも笑顔の少女は、少しの隙も見せないのに時折ひどく痛々しく見える瞬間があった。 それに気づいた時から、土方は妙から目が離せなくなった。 そんな彼女は、普段は授業が終わったら弟や留学生やら転校生やらに囲まれて、家路を辿ることが多い。 珍しいなと思った時、窓の端で何かが動いた。 見上げると、屋上の給水タンクに少女がぽつんと座っている。 ため息をひとつついて、土方は待ちぼうけをくわされていたカバンを持ち上げた。 ゆっくりと、大きな太陽が西に下る。 藍に溶けそうな橙の縁。 少女はその縁を、祈るように見つめていた。 「‥何やってんだそんなとこで」 「あら、土方くん」 声をかけると、少し驚いたように妙は軽く目を見張って土方を見下ろしてきた。 「カバン持って来てやったから、とっとと降りて来い」 「まぁ、わざわざありがとう。気にしないで、先帰って?」 「あのなぁ‥」 にこりと言い放つ妙に、土方は2回目のため息をついた。 再び空を仰ぐ妙は、聞こえるかどうかの囁くような声で言葉を紡ぐ。 「あのね、空があんまり綺麗だから‥‥」 幽かな沈黙。 結い上げた髪を、風が揺らして。 「空に近いところにいれば、両親のところに届くんじゃないか、って」 黄昏を見つめる瞳。 それは藍に溶け逝く、橙の縁に焦がれているようで。 「そう、思ったの‥‥」 そう呟いた妙の横顔は、笑顔なのに泣いているようで。 普段の妙からは想像もできないくらい脆く危ういものを感じて、土方は慌てて言葉を次いだ。 「お前‥ここからだとスカートの中、見えるぞ」 「見たら殺すぞコルァァァ!!!」 苦し紛れの暴言に、間髪入れずに飛んで来た何かを必死で避ける。 よく見ると飛んで来たのは妙の片方の上履きで、しっかりとコンクリートを抉っていた。 土方は青ざめながら上履きの側に2人分のカバンを置いて、妙を見上げる。 「‥‥いいから、降りて来いよ」 辛抱強く声をかけると、妙がクスリと笑った。 「なんで、命令されなきゃいけないの?」 「チッ、ったく手間かかるなお前」 「何よっ、‥?」 振り向いた妙に向かって、土方は両腕を差し伸べた。 「‥‥‥おいで」 びっくりして目を瞬いてる妙に、土方はやけくそのように叫んだ。 「あー!ガラじゃねぇのはわかってんだよ!! だから、おいでっつってんだろ!」 大きく息を吸って、妙の目を見据える。 「妙!」 目を丸く見開いた妙の顔が、不意にふにゃりと歪んだ。 ふわりと立ち上がると、土方の腕の中に飛び込んでくる。 小さく震え始めた背中を、土方はそっと抱き締めた。 誰かに見られてたら、コイツは泣くのを我慢して笑っちまうんだよ。 だから早く、沈んでくれよ。 そうすれば、泣いてる妙を隠すことができるから。 そうすれば、しっかり妙を抱えることができるから。 祈るように見つめる土方の目の前で、太陽はゆっくりと沈んでいった。 (080315) |