「今帰りかい?妙君」 「“君”じゃなくて“ちゃん”よ?伊東くん」 まぁ志村姉と呼ばれるよりは良いけれど、と妙はクスリと笑う。 「君付けで呼ばれるのは初めてだわ」 「そうか‥すまない、イヤだったら“さん”に変えるよ」 「あっ、いいのよ。別にイヤではないわ」 妙に笑顔を向けられて、伊東も口元を綻ばせてメタルフレームのメガネに触れる。 「そうか、良かった。‥“君”は男子や同年輩、特に年下に対して使われるイメージが強いだろうけど、相手を敬う意味もあるんだよ」 「そうなの?」 「あぁ。ほら、ちょっと固い言い方になるが、人の奥さんのことを細君と呼ぶことがあるだろう?」 「言われてみれば‥そうね、聞いたというか、読んだことがあるわ」 妙の言葉に、伊東は歩きながら小さく笑みを浮かべる。 「伊東くんって、やっぱり頭がいいのね。銀八先生の代わりに授業出来るんじゃない?」 「いや、僕にはあのクラスをまとめきれないよ。それに‥」 勉強が出来るのと、頭が良いのは違うからね。 小さく呟いて、伊東は妙を見つめる。 「僕は、あまり人を褒めるのがうまくないんだが‥とても聡明な人だと思っているんだ」 妙はきょとんと伊東を見つめる。 「君の笑顔には、いろんなものが織り込まれている。それを眺めているのがとても楽しいというか、その‥」 急にしどろもどろになった伊東を不思議そうに見つめ、妙は合点がいったように頷いた。 「伊東くんは、銀八先生を尊敬しているのね」 「‥え?」 「確かに教師とは思えないほどマダオな感じだけど、不思議といざという時には先生らしく見えることもあるし」 「いや、そうじゃな‥」 脱線していく流れを変えようと焦る伊東の前で、妙はにっこりと微笑んだ。 「伊東くんって、やっぱりすごいわね」 今日一番の妙の笑顔は、あっさりと伊東にとどめを刺した。 「‥君の笑顔の方が、何倍もすごいよ」 降参だと言わんばかりに苦笑まじりに嘆息すると、妙はいたずらっぽい目をして伊東を見上げた。 「伊東くんも、もっと笑った方が素敵よ?」 じゃあまた明日ね、と手を振る妙に手を上げながら、伊東はポカンと小さくなっていく妙の背中を見送った。 今更のように顔に駆け上がってくる熱が、たまらなく熱くて息を吐く。 メガネの位置を直しながら歩き出すと、無性におかしくなって笑いが零れた。 「‥主語を省いたのが、失敗だったか」 それとも、うまくかわされただけなのか。 いずれにしても、妙の笑顔はいろんな意味で手強いのがよくわかり、伊東は上機嫌に茜色の空を見上げた。 ――考えるのは得意だ。 じっくり攻略していこう。 そう考えながら明日を心待ちにしている自分に気付いて、伊東はまた小さく笑った。 笑顔は、笑顔を呼ぶのかもしれない。 《おまけ》 「すげェ、伊東の邪気のない笑顔なんて初めて見たぜィ」 「‥どこからわいてきたんだ、沖田君」 「あんまり調子乗るんじゃねェぞ伊東。こんなチャンスは二度とないと思え」 「意外だな、嫉妬しているのか土方君。君は妙君のことがす‥」 「そんなんじゃねーよ」 「言っときやすが、何も隠せてませんぜ土方さん」 「全くだ。妙君に笑顔の秘訣を教えてもらうといい。最も、君の笑顔はあまり見たいと思えないがな」 「俺が教えてやってもいいぞ土方」 「うるせェ!!余計なお世話だ!」 「ま、今回は先生を『尊敬』している伊東に免じて見逃してやったが、次はないからね。全力で先生も邪魔するから。それにしても、さすが志村は良く見てるよ人を。俺という人間を。やっべ、もしかして惚れられちゃってたりして」 「先生、残念ながらそれは有り得ません」 「100%でさァ」 「寝言は寝て言え、ダメ教師が」 「‥お前ら、明日から一週間補習な」 (080616) |