(若い日の二人設定)



 優しい風に包まれていた。
 それは、川のせせらぎの匂い。猫の毛が逆立つ音。髪が泳ぐ記憶。

 無用なほどに形作られたくびれに、こっそりと隠れてコルセットを外した昼下がりの庭。やっと時期かと、出番を待ちくたびれたように、若草がさや、と萌える。
 くう、と華奢な腕をコバルトブルーに向かって大きく伸ばした。拍子にふらりと揺れた足に、面倒くさくなって力を抜いてしまう。へたりこんだ緑は、たっぷりと養分を含んだ土に育まれ、透き通るような葉脈を体全体に広げている。
 瑞々しい生の気配に耳を澄ませていると、二メーテルほど先に立っていたルーファスが大丈夫か、と眉間に皺を寄せて近付いてくる。そんな風にしていると、すぐに老けるわよ、と不器用な青年に頬笑みかける。ふわ、りと端正な顔に血が集まる様子は、うら若い乙女のようで。まるで立場が正反対だ、と谷間の奥で心を擽られる。

 赤、黄、白。丁寧に磨かれた煉瓦造りの花壇の中では、歓喜に踊るさまざまな花が太陽を眩しそうに見上げている。ただただ無色の、強いていうならばうすらとしたヴェールのような光は、優劣をつけることもなく、地上だけでなく、銀河の星々をも優しく照らす。ときに、厳しく。ときに、甘く。
 人に見られるために整えられたチューリップの隣に、まだ蕾の、小さなたんぽぽを見つけた。綿毛がふわりと飛んできて、その小さな種が時間をかけてゆっくりと根を張り。そして暖かなレモン色の花びらを今、抱えている。ひたすら、来たる開花の日を待って。

 首をするりと傾げて、また、笑みを深くした。前髪が、さらさらと左にそよぐ。

「シェリル、スカートが汚れているぞ」
「平気よ、いっそ泥んこにしてしまいたいくらいだわ」

 それでもレインズワースの令嬢なのか、とゆるく後ろ頭を掻く仕草。肺を満たす酸素に、彼の匂いがした。
 絹の生地を軽くはたく。染みついてなかなか落ちない、裾についた鈍い黄土色。新調したばかりのピンクの靴にも、こびりついてしまった、固まった小さな地面。
 私はいいけれど、使用人が可哀想ね。口にしながら頭を爪の先で軽く掻いた。無意識の行動にふと気づいて、小さく漏らした「あ」は、ルーファスの鼓膜を叩かなかったよう。
 彼はただ、ただでさえ細い瞳を更に細めて、めいっぱいに溜息をついた。さらさらの赤が、その頬をふわりと撫でる。

「……おいで、ルーファス」

 いつもとは違う呼び方。少し震えた、いつもよりも半音高い声。
 隣の地べたを二回、とすん、とすん。と叩いて。ブリキ人形のように硬く、肩に力を入れた彼は、下手くそなパントマイムのような動きで腰を下ろした。

 二の腕が触れる距離。布越しに感じる、とくり、とくり。脈打つ体温。
 早まる、隣の呼吸音。

「ねえ、見て。うろこ雲」

 深く、海を往く人魚姫みたいね。唇が滑らかに言葉にした。
 右手の平を、彼の左手の甲の上に乗せて。

「……人魚姫とは、些か悲しい例えじゃの」

 困ったような、嬉しいような。そんなマーブル色をかき混ぜて。そっ。と預けた私の頭を、彼は広い肩で優しく、強く受け止めた。

 耳に、血流の音。
 擦り寄せたこめかみに、ルーファスもまた同じ形で応える。

 体温、高いわね。
 ……うるさい。

 心が静かに、満たされていくことがわかる。短い、私の全ての世界である時間。
 来賓の貴族の声は、今はただ心地いい水音のような。葉の囁く歌のような。

 大きく息を吸い込んだ。懐かしくて、切なくて、緑の、あなたの匂いが。した。

「分かっているのに、ね」

 くしゃりと、私よりも一回り大きな手が草を握り締める。
 顔を見るまでもない。見つめ合うほどの余裕も、ない。

 大人になんて、なりたくないわ。

 漏らした舌は、少し前から既に渇いてしまっていて。
 彼は息を詰めて、何も言わなかった。

 ゆっくり、ゆっくり。もっとゆっくりと、時が流れて行けばいい。
 人魚姫が。ああ、人魚姫が、消えかけている。かすれて、こすれて、なくなってしまう。

 王子の姿を、幼い乙女の鏡に映したままに、ぶく、ぶく、ぶく。

 重苦しい鐘の音が、屋敷を囲む。
 二人はそこから動くことはしない。

 冷えてしまいそうな大小の手の横に、黒蟻の列が並んでいる。

 あのとき、思い切り強く抱きしめてほしい、と。なんで、素直に言えなかったのだろう。
 大切で、狂おしい。距離、淡い熱。

 届かなかった言葉は、懐かしい、なんて言葉になれないままに。
 ぎゅう、と強く。彼よりも年老いた今でも、宝石のように隠した涙に秘めたまま。

20100424

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