灯(ヒ)が沈んでいく。

 遺された光を背にする木の輪郭は、うすぼんやりとしていて、こちらから見ると、まるでシルエット。
 その黒い影と、薄くなった白い吐息を片手に斜め前を歩く男とを重ねて、どこか懐かしさに酔い痴れる。

 舌の縁が乾く。
 歪んで溶けて行く太陽は、まるでスケッチブックに張った水に滲むように儚げで。普段見ているような確固たる存在には見えない黄昏時。多くの屋台は店仕舞いを始め、数軒だけが汗を拭う男らを酒で労(ネギラ)っている。通る間際、大き目のグラスを握る中年の、皮の剥けたごつごつとした指が印象に残った。

 活発に動き始めた小さな羽虫が光に集まり存在を誇示している。それも、黒く。幼い点ばかり。
 青くなっていく草の匂いに浸りながら、流れ往くぬるい風に、得てして、眩暈。
 宵に濡れた瞳は、紅樺(ベニカバ)色となって空(クウ)を見つめる。少しばかり、ぼんやりとしているらしい。

 歩幅がいつもよりも狭いことに気付いたらしい一羽の鴉が、こちらを振り返り、見つめている。具合が悪いのか、と静かに問う声に、目が軽く眩んでいるだけデス、と答え、言葉はそれきり潰えた。
 そしてまた視界に入る背中は、周囲の闇に同化したり、個体になったりを繰り返し、先に進む。

 体に力が入らない。
 重力に則って、地面に垂直に立っているはずなのに、脳はずしりと重く、腕が落ちる。
 倒れないように、と支えにした木の幹は、いまだ春が遠いものと思っているように乾いていて、生きている心地がしなかった。

 喧騒が、遠く聞こえる。
 目の前は、ノイズがかった灰色だ。
 自身の髪の色のほうがよっぽど綺麗だ、などと考えている間は、余裕があるのかもしれないが。

(雪は、もう、降らないな)

 霞み、見えないのに天を仰ぐ。
 そこは、ただただ色を失って、黒が広がる小宇宙。
 さて、黒は無なのか。果たして有なのか。
 見収めた銀の世界が、もう二度と、来ない気がして。薄い目蓋を半分綴じた。

 ベールに覆われた町は、輪郭を亡くして混ざり合っている。
 存在しているのに、存在を忘れられたような錯覚。この中に、自分も溶けていってしまいそうで、前を向く。
 更に遠い背中。背中なのかすら分からないくらいに、ぼやけたこの空間に、染め抜かれて。

 ギルバート、くん。

 ひとりきりが怖くて、舌を濡らした。
 その名を言葉にしても、気付くはずもなく。そのうちに正常化した視界からは、その存在は既に、点となっていたのだけれど。

 疎外感と虚無感が腹の底から気管支へと押し寄せる。
 指先が妙に冷たく、背中には冷えた汗が浮かんでいた。

 誰そ彼(ダレソカレ)。
 現実と想像が、混ざり合い、思考が劣化する時間帯。

 子供が父親に背中をせがむ声が肌を撫でていった。 
 自己の存在を忘れてしまいそうになるまで、齢(ヨワイ)を重ねた木の隣に立って。


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