薬指の腹の肉を吸うように口に含んでいると、大丈夫か、と少し心配そうな、よろめいた言葉が飛んできた。

「大丈夫ですよ、書類の端で切っちゃっただけですから」

 空いた手のひらを手首から上下させて、テーブルを挟んで座っている上司に合図をする。癖毛がうねる、なのに艶やかな髪の毛を揺らし、なら良かった、と子供のような頬笑みを見せた。

 春が近付いている。
 雪を裂いた天(アマ)つ風は、穏やかな陽光に身を任せ、小雨と共に花信風(カシンフウ)となって、のんびりと地上に降りてくる。
 天井で結ばれていた氷の結晶は、重力に乗りながら、熱を帯び出した大気に温められ、光と環(ワ)になって大きな虹を作り出す。

 カーテンがふわりと膨らんだ。
 室内に冷たさの残る空気がぐうんと入り込み、肌寒さに目を細めた。
 遠く芽吹き始めた山が、花緑青(ハナロクショウ)に色づいてきている。

 足元に積み上げられた報告書は、腰かけた際の膝のあたりまで高く、存在感を主張しており、テーブルの上には、いつまでもなくなることのない、穴埋めのような紙の束。
 先程書きあげたものを、床の書類の上にずれないように被せ、ぼう、とし始めた頭を休めるようにはみ出た欠伸を軽く噛み殺した。額の奥が痛み、重くなる。いわゆる眠気だ。
 半ば上目遣いに視線を寄越した先の彼も、少しばかりしんどそうに肘をついて頬を載せている。昨夜からの重労働は、睡眠を許してはくれない。

 眠たそうですね。

 出てきた自分の声の、あまりに頼りないぐにゃりとした音に、恥ずかしいという感覚は損なわれ、ただただ目蓋が重いだけ。

 お前こそ、本当に眠たいんだな。

 眉の外側をゆるく下げた、困った顔の青年は、長い睫毛を下に向かせながら、柔らかな笑みを浮かべる。
 線が細くて、どきりとする首元に、輝く、シャンパンゴールド。

 ふわり。風に乗ってどこまでも飛んでいきたくなる。夢に落ちて、甘いお菓子をいつまでもいつまでも食べていたい。

 目がぷるぷると震えるのに気づいて、両頬をバシリと叩く。
 仕事中に眠りに落ちるなんて、この人の前で眠ってしまうなんて。だめ。

 無理やりに抉(コ)じ開けた瞳は、少し充血気味。
 どくり、どくり、と脈打つのが分かる指で、ペンをしっかりと握り、単調作業へと戻る。ペン先が歪んで動いてしまいそうで、実に恐ろしい。しかし、緊張感よりも、睡魔がぐるり、ぐるりと頭の上を回り始めるから、どうにも困る。

 大量の書類に対する文句にも飽きた上司はただ黙って手を動かす。仕上がった束を一つに纏め、トンと整えたとき。ホッチキスを取ってくれ、という言葉に、悲劇が起きた。

 ぶわり。大きく拡がったカーテンの白が、窓際の壁を包み込む。
 酷い旋(ツムジ)風に煽られた室内が、白練(シロネリ)色に塗り潰されて。
 淡い、桜色の匂いがした。

 瞳に掛かった髪の毛を横に分ける。
 見下ろすと、左右に揺れながら舞い降り、ぐちゃりと足元に散らかる書類が、二人の努力を笑っている。
 じっ。と俯き一点を見つめる彼に、同情を感じて。

「……纏める書類、どれか分かります」

 苦虫を潰したような沈黙が、答えになっていた。

 小さな器具をテーブルに乗せて、二人。分担して紙を拾い集め始める。
 幸い、大きさは同じなので、束にするのはとても容易い。問題なのは、用紙の順番を一つひとつ手作業で確認しなければならないことだが。
 四つん這いになって一枚、また一枚、と少しずつ元の場所に戻していく。

 ガチャリ。
 小さな物音がして驚き振りかえると、立てつけの悪かったホチキスが、一人寂しそうに落ちていた。
 ぐう、と上半身を前に傾けて、手を伸ばす。

 記号にすると、エクスクラメーションマークだろうか。
 慣れない、私のそれよりも冷たい感覚が、触角から脳天へと、ぎいん、と駆け抜けた。

 私の指よりも先に、それを手にしている彼の指先。
 ありがちなパターン。ありがちな情景。
 重なった二つの肌を見るよりも前に、目と目が逢い、離せなくなった。

 苦い、甘い、風が吹き込んでいる。
 熟したチェリーのように耳まで赤くした彼は、先に視線を逸らし、悪い、とそっぽを向いた。
 その様子に、私まで取り乱してしまい、いえこちらこそ、と宙を見る。

 さや、と木が囁く声がする。それに、紙の端が、焦れったく揺れ、かさ、と一つ。合図を送った。
 どちらからともなく見つめ合った二人。眠気は既に飛んでいき、心地よい、心臓の拍動。
 指先が、酷く熱い。そこから発熱して、全身を襲うような、そんな錯覚。
 左胸が寿命を短くしようと小刻みに、且つ大げさに運動するのを抑えて、少しだけ大人っぽく言ってみた。

「書類を片づけたら、お茶でもどうですか」

 高く昇った太陽に照らされた幼い金属が、きらり。
 書類の絨毯が反射する光に、世界は真っ白に輝いている。

 ホッチキス、とって

 狂おしいほどにほろほろと膨らんだ微笑み。
 その中で、色を差す甘い恋心が、淡く、あわく、滲んでいた。

 風が、窓の外で、びうう、と声を上げている。

20100216

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