「一体どういうことだ」
「何がデス」
カチャリと軽い音を立て、ティーカップを受け皿に置いた変人上司は、組んだ足を直す気配も見せず、立っている俺を横目に見上げた。
白く花の模様が大きく描かれたシャトルーズグリーンの陶器からは、ディンブラ特有の、薔薇に似た柔らかみのある匂いがほうほうと立つ湯気とともに漂ってくる。
作り置きのスコーンは、良い焼きあがりだと楽しみにしていたのに半分ほど食べられているし、テーブルの上だけでなく床にまで、忌々しいと言わざるを得ないトレードマークの飴どもが個々の場所を陣取っている。
それよりもまず、主張したい。
「人の部屋で何してる」
ふむ、とわざとらしく考える振りをして、彼は仰々しく視線を逸らす。
テーブルの隅に座るエミリーの両手をつかんでひとしきりぐるりと回したあと、「休憩をさせてもらっています」と悪気もなく言い放った。
「……じゃあなんだこれは」
最初の質問が求める解答のヒントとして、今まで右脇に抱えていた書類の束を器の隣に叩きつけてみる。何十枚もあるそれは小さく風を起こし、食べかすをいとも簡単に巻き上げた。手書きで丁寧に仕上げられた報告書のうち数枚が、足元までシーソー遊びをして着地する。マンダリンオレンジの紅茶が、たぷ、と嗤うように揺れて。
立ったままではライトの明るさに眩暈がしてしまう。ちか、ちか、と光を失ってしまう錯覚。
具合が悪そうですネ、と対の席を勧められ、いいかここは俺の部屋なんだぞ、と再三の注意をしながら腰を下ろした。
肩が重い。右手が血行不良でゆるく痺れている。幼い電流を流しこんでいるような感覚が指先を襲う。気だるさを覚える右半身の代わりに、左手が帽子を取り、頭が少しばかりすう、とする。
睫毛まで、重い。
「しんどそうですね」
「誰のせいだよ」
両目の間を人差し指と親指でぐう、と力強く押し込む。寝不足のせいで力が入らない。
恐らく、隈(クマ)ができているだろう。
情けない。
やっとこさ答えが返ってきたのは、そう言って、肘をつき頭を抱えたときだった。
「だから先にお仕事を片づけておいたんですヨ」
そんな、信用できない、答え。
驚いてはいるが、表現するほどの元気がない。
熱でもあるのか、と憎まれ口を叩けば、キミの方がありそうですがねェ、と愉しそうな声。
鼻から喉に届く、甘く、渋みを帯びたバフ色のこんがりスコーンの匂い。少しだけ顔を上げると、そこには滅多にお目に掛かれない程に優しい笑顔を浮かべた、片方だけのカーマイン。
そ、と男のそれにしては細い、しなやかな指が額に近付けられる。触れたそれは、秋の夕方にそよぐひんやりとした、それなのに温かい金風のように心地よかった。
本当に熱があるようですね。
他人(ヒト)の仕事を断りもなしに終わらせ、挙句の果てに勝手気儘に部屋でくつろぐ、ありがたいのか呆れるのか、それすらよくわからなくなってくる上司は、何事もなかったかのように、純粋に眉を顰(ヒソ)めた。
一体誰のせいなのか。用を足しに行った帰りに他の上司に「今日は提出が早かったな」と言われていなければ全ての仕事を終わらせて沈んでいたところなんだぞ。誰かさんじゃないが、腐れピエロめ。それくらい言ってもバチは当たらないはずだ。
ただ甘えのような気もするから口にはしないでおくが。
ぶるりと背筋が震え、自らの肩を抱く。彼の言う通り、体が熱いようだ。
目ざとく察した某腐れ(ピエロなどと人間を彷彿させる言葉を使ってやるものか)は、今まで着ていた上着で俺の後ろ姿を覆った。
ほのかに残る体温と、コートの肩の部分からはらりと落ちる、ムーングレイの軽く癖づいた一本髪の毛。
奴の、匂いがする。
お仕事を済ませてしまったことを言わなかったのは、もちろん単なるイジワルですけれど。
聞いてもいないのに、弁解をするのか。しかし、その口調には焦りも、押し付けがましさもない。
「実は、明日の始末書も、終わらせておいて差し上げてるんですヨ」
不可解な行動を取る奴だとは知っているが、面倒なことは基本的に避け、いつもはむしろ、執務を俺に押し付けているくらいの奴がどうして。
そんなことをぼんやりと思いながら、白くぼやけ始める目を凝らしてみる。わけが、わからない。
彼は続ける。
「あなた、昨日から風邪をひいているでしょう」
「……」
だからどうした、と言いたいところだったが、唇が重くなってきたので、やめた。
肯定の代わりに、沈黙で返事をする。
なんとまあ、情けないことか。そう思うのに、同時に口元がほころぶのがわかった。
口には出さないが、内心相手のことをよく察し、冗談めかして元気づけるところが、彼にはある。器用なくせに、妙なところで不器用で、自分の感情をうまく伝えられずに勘違いされるところもあるが、ほんのたまに。ごくたまに。可愛い一面が見えたりもする。
ぎう、とコートの端を握る。自身のそれよりも長いので、首も、体も、包みこまれる。
少しだけ。思い切って、口を開いてみよう。
「心配……してく」
「まあ、その報酬がスコーンなわけでして」
何を勘違いしてるんですかァ。
子供の遊びに飽きたような顔をして、くつくつと悪い顔をしてみせる。
なんとも、素直じゃない。
「しかし、仕事とはいえ不調のときもしっかりとタスクをこなしていたことは褒めてあげますヨ」
馬鹿にしたような、いつもよりも高めの声が鼓膜を叩く。腹が立つのに、心地いい、テノール。
いいこいいこ、と撫でるてのひらは、態度に反して、残酷なくらいに優しかった。
そうしてやっと気づく。
(ああ、俺は、捕えられている)
時折見せる、悪戯な顔。
稀に見せる、穏やかな微笑み。
華奢な指先。血色の悪い、テラコッタの唇。
全てが小鳥を囲む、甘美でいて、重い檻(オリ)のように。
瞳を閉じれば、落ちてしまう。
彼に。その色の名の通り、月のように人を惑わす、灰色の魔法に。
視界はグレーゾーン。ああ、目蓋よ落ちるな。わかるんだ、眠ってしまったら、もう、
「今は、よく、おやすみなさい」
顎をするりと抜けた手が、それこそ何かの呪術のように、離れた瞬間、頭が、沈んだ。
籠の扉が閉まる。黒い羽の小鳥は、もう、逃げられない。
最後の最後に薄いアンティックゴールドが写したのは、冷めてしまったティーカップに口づける道化師。
その唇が欲しい。心からそう思った。内心では分かっている。あってはいけない慕情だと。
そんな背徳感さえ心地いいと思って、いとも簡単に意識を遠ざけてしまったのだけれど。
逃げ道封鎖につき
(ほら、つかまえた)
むしろ、にげられるのに、にげたくないのかもしれない。
かんかくがはなれ、からだが、ちゅうにういている。
どこか遠くで、魔法に囚われた鴉がガア、と啼(ナ)いた。
20100211