焦燥が達観に変わったのはいつごろからだったろうか。
レインズワースの窓の外側に、縁で名残惜しそうに融け残っている雪が見える。黄昏に向かう世界は序々に色を失ってゆき、傾きながら暗転し始めている。
対照的に白く明るい部屋は、弾けるような音を立てる煉瓦造りの暖炉の火で、照らされ、熱されて。
不自然なほどに温かい手を軽く握り締め、ぎち、と革の擦れる音をたてて腰を上げた。
忘れない。――忘れてなど、やるものか。
猫は死に際を人に見せないという。
それを思い出していた。
あの男の場合、猫よりも性質(タチ)が悪いのだけれど。
(猫は嫌いだ、)
なのに、枯れかけの葉が波打つ道を、彼を目指して、歩いている。
いつもの黒装束。喪服のようだ、と時折自分でも思う。
帽子をつけているにも関わらず、頭が凍りのように冷え切っている。耳は痛みを超えて感覚を失っているし、唇が乾いて捲れている。
足の感覚もない。
ただただ、つま先がその方向を見つめているから進むだけ。
少し歩いただけなのに、空からは光が薄れ、今はすでに闇の中。
湿度の残る土が靴裏の窪みに入り込み、来ることを拒んでいるかのよう。
構わず進む。
星のたよりもない天井は、ずしりと重たい枷(カセ)のように背中を締め付ける。
急角度の坂を越えると、草原とは表現しがたい小さな丘に出た。
風に乗って、甘い匂いがした。
心臓が、ゆっくりと動いている。
先程まで流れていた空気は、その丘の上でのみ、静止していた。
沈んだ太陽のように、荘厳で、寂しいはずなのに満ち足りたような、黒。
地面があることは分かる。なのに、足元が見えない。靄(モヤ)が全身を包んでいるような、不思議な感覚。
自身まで昇華してしまうような錯覚に陥る。
手探りに進んでいくと、ぼう、とした光を見つけた。
星の輝きを一つ切り取って、落としてしまったような、弱々しい光。
「いくのか」
すでに瞳に灯(トモシビ)はなかった。焦点が定まらない、半分しか開かれていないそれは俺を認識することもできないらしい。ただただ表面の粘液が乾くことを待っているだけ。
浅すぎる呼吸は、口元から気持ちほどの吐息しか預けることができず、白すぎる肌に、固まった黒い睫毛が不釣り合いである。
少し遅れて、動きそうにもない唇が、だらしない声で「レ、」と呟いた。
音になったのはそれだけだったが、そのあとの動きで、俺のことを指していることはわかった。
微妙に目蓋に力が入ったのを見て、膝をついて、手袋のまま睫毛を綴じさせる。一つ皮の下の眼球に動く気配はない。神経が死んでいる。
そ、と頬を撫でると、どこから捻りだしてきたのか、生温かい涙が手に吸いついた。零れ続けるそれを、手袋が吸っては重くなっていく。
その顔に苦渋の表情はない。だがどこか、寂しがり屋の匂いを感じた。
「伝言、あれば伝えておいてやる」
他の誰も、彼がこのような状況に陥っているとは気づいていない。
大切な妹のような娘に、不器用な少年に、真っすぐな少女に、心配性の青年に。何か、言い残すことはないか、そういう意味での言葉だった。
その口の筋肉が痙攣する。
普通なら分からないはずのその動きで、まるで読唇術を学んだかのように、言葉がするりと頭に入ってきた。
お願いします。
「忘れ て、 くだ さ」
最期まで素直にならないまま、一つだけ音を遺して、息が。
肌理(キメ)の細かい肌は、元来血色が悪いはずなのに、まだうすらと血の気を保ったまま。
止んでいた風は、魂を運んでいくかのように、ゆるやかに流れだす。
吸っていた煙草は短くなり、自然と火も消えてしまった。
ちっとも赤くなどない二つの金色を通して、彼は、また新しい朝を迎えるレインズワースの屋敷を見る。
建物の背中から差してくる光は、時を追う毎に強くなり、冷めきっていた頭の先を、優しく撫でるように気持ちいい。
「見えるな、」
視界の奥に、灯される白を。屋敷を中心に橙、青、紫の順に重ねられた世界を。おまえの目にも見えているのだろう。
長い帰路に、汗ばんだ手袋を外すと、指と指の間が透けて、赤くなっていた。
手の甲を額にひた、とつけて。それすら34℃。
程よく体力を奪われた体を、朝焼けが優しく包む。
目を閉じれば、どくん、どくん。と浮き沈みを繰り返す自分の命と、眠りかけの青を感じた。
鼓膜を刺激する、黄色い小鳥の囀り。
焦燥が達観に変わったのはいつごろからだったろうか。
すでに忘れてしまった。
分かること。
それは達観が満足に変わったのは、たった今であるということ。
34℃:彼の場合。
涙するよりもただ、信じること。
遠く見える春も、やがて近づく。
靴裏の土を踵でとん、と叩いた。
20100207