味は、『道化師風味』。
口
寂
し
い
「折角この私が差し入れに、と思ってチーズケーキを持ってきてあげたのにィ」
「人の家に勝手に上がり込んでおいて、何が『この私が』だ」
言い返すと、彼はさして機嫌を損ねているはずもないのに、あからさまに唇を尖らせて涙を浮かべることまでしてみせた。
ああ、なんと理不尽な身の上なのだろう。
首都レベイユ。その隅に追いやられた閑静な住宅街。久々の穏やかな時間を、買ったばかりのソファの上で読書でもして過ごそうとしていたときに、突然の闖入者は食器棚の中から現れた。
ケーキを持ってきたから飲み物を出せ、を第一声に携えて。
「『この私が』、ですヨ。にしても紅茶もコーヒーもないとは、どんな生活をしているんですか、君は」
昨日、残りの紅茶を全て飲み干したのは、その、曰く差し入れを一人で平らげようとしているのはどこの誰だ。
口を突いて出かけた言葉を飲み込み、本革製のソファに腰掛けてフォークを舌に運ぶ隻眼の男を見る。オレンジの皮がふんだんに使われているというそれは、柑橘類の甘い匂いでこちらの鼻腔をくすぐる。
最後のスポンジ一塊が彼の喉を通って落ちた。
窓の外に激情の橙。陽は地殻に引き摺られ、力を振り絞り世界に光を送り届けようと躍起になっている。しかしその甲斐虚しく、天は色を失っていき、残照に向かって広がっていくのは、黒・紺・藍・青・紫の暗闇の世界。黄昏が夜に変わるころの空は、佇む家々の厚い壁を様々な色に塗り替えて、目に鮮やかな楽しみを与えてくれる。
一羽の鴉が、夕闇に消えていく。その先に現れたのは、慎み深い光を湛えた一番星。
「綺麗ですよネ」
ベランダで紫煙を燻(クユ)らせていたオレの隣にやってきた男は、肘を手摺りに預け、その上に顎を載せた。紅い瞳が見つめているのは、先程の鳥が羽ばたいて行った先。
「やっぱり結局、オレの分まで食べたんだな」
苦笑混じりに煙草を消して、灰皿へと投げ入れる。
部屋のテーブルの上には、純白の皿に、銀色のフォークがあるのみ。
食べたかったんですかァ。
と、見上げる視線。
そんなわけないだろ。
と、頭を意味もなく掻いた。
心地良い沈黙に、二人を沈める星空が広がる。
夏の近い郊外では、中心街とは違い、涼しげな風が汗を掬う。
額の上で溜まった水滴が、睫毛、頬骨とを伝い、足元に落ちて、音をたてずに割れて消えた。
「、ギルバート君」
名を呼ばれ、彼の方を振り返れば、柔らかく押し付けられる唇。
手袋の上からでも冷たい指先に、後頭部を支えられ、触れるだけのキスが数秒続いた。
目を閉じると、肺が自分の汗の匂いが混じった、彼の匂いで一杯になる。
重ねるだけ。ただそれだけのキスは、質素だからこそ、満たすものがあって。
離れていくのが、ほんの少しだけ勿体ない気がした。
体温が繋がっていたのは束の間。
真剣な表情は、急に悪戯好きのいつものそれに取って代わって。
「飲み物を用意していなかった罰ですヨ」
意地の悪さを含んだ声が、微笑みが、細められた目のために更に深くなる。
「差し入れを取られたオレはどうしたら良いんだ」
どうして欲しい、と挑発的に刺激する道化師の鼓膜は、ただ黙ってこちらの言葉を待っている。
乗せられているのではないか、と考えていないわけではなかった。思考の前に、唇が動いていたのだ。いっそ、笑われても、構わないから。
「口寂しい」
おやおや、と困ったようなわざとらしい声を上げる、気まぐれピエロ。
オレよりも一回り小さな手の平が、艶やかな黒髪を幾度も撫でて、また二人。小さな体温を繋げて。
月夜の接吻。味は、『道化師風味』。
20090623