そしてまた、沈んでいく。

*a cat has been..*


 これは、何の匂いだったろう。

 昏(クラ)り。
 ああ、これは。

「お好きなんですね、薔薇が。いつも薫る」

 夜風が、滑らかに世界を撫でる。暗澹としたとした空の下、ナイトレイの屋敷のベランダでは、穏やかなランプの明かりだけが他者の微笑みを照らしている。少し、空気が生臭くなったようだ。温暖になってきた初春の町は、冷えを残したままに色を変えていく。
 枯れ果てた裸体の木々も、すでに幾らかは芽や蕾を準備しているらしい。しかし何故か、薔薇の匂いだけは自分の体にもいつも薫るようになっていた。

 ええ、分かりますか。と、ヴィンセントは長い髪をはためかせ、額に掛かった幾本の絹糸を耳元へ避(ヨ)ける。暗がりであろうと、彼の髪は月光のように煌きを忘れない。外套がはさり、と暴れる度に薔薇は漂いやってくる。静かに触れた、セメントの手摺りが指先の熱を引っ張っていく。眼鏡の金属質な感触が肌に心地良い。
 ずっと下に、みう。と子猫の鳴き声が聞こえた。

 ふ、とヴィンセントがこう漏らす。

「ああ、綺麗な声だ」

 恐らく猫のそれのことだろう。可愛いですね。と彼は付け加えて、目をすう、と細めた。その仕草こそ、猫の姿に似せられているようだ。オッドアイの妖艶さに、ぞう、と全身が粟立つのを覚える。私は何故、恐怖しているのだろう。それを知ってか知らずか、彼はクツと喉を鳴らして私を部屋に招きいれた。荘厳に、且つ簡素に飾られた部屋は暖かく静かである。額に入れられたナイトレイ兄弟の幼少時の肖像画は、色褪せることもなく、油のこてりとした状態を良く残しているし、白いテーブルは照明の明かりをしっかりと反射出来る程に磨かれている。
 視界の端に、棚の上の透明な花瓶に黒い薔薇が零れているのが見えた。不自然に、ぐったりと"分解"され、赤黒い液を木肌の上に晒している。
 幼い戦慄と甘い焦燥感が心臓を圧迫する。だが、同時に陶酔が襲い掛かっているのも事実で。

 全く、どうかしている。

「レイムさん」
「はい、」
「おいで」

 言葉を聞き入れながら、時計に目を遣る。それは幾度となく見てきた二本の針の位置。
 ああ、もう。そんな時間なのか。

 ソファに座る青年の前に、音も無く近づいていく。影が重なった。

「今日は、積極的なんですね」

 テノールの響きには、若干の驚きの色が混じっていた。それもその筈だ。私が、いつもは解かれているはずのネクタイを、自分の指で解いているのだから。「ふふ、良い子だ」と、ヴィンセントは我が子の成長を喜ぶようにレイムの頬を撫でる。手袋を外した指は、ひやりと冷たくて。くすぐったさで身を捩ってしまう。

「早いね。もう、感じたの?」
「……」

 小さな狼狽をも見抜いてしまうその双眸は、「可愛い人だ」と、両手を背中に回して、首筋に所有の印を付ける。そう、私は彼の人形のようなものだ。

「レイムさん」

 唇が鎖骨を這い回る。
 だが、彼の所有物には、抗うことを許されない。

「ああ、レイム さん」

 恍惚とした表情に、汗がうすらと滲み。
 奪われた眼鏡をなかなか消えない水蒸気が覆っていた。

「ヴィンセント様、」
「ん、」

 "私は、いつばらばらに裂かれるんですか"

 そんな自虐を生唾と一緒に飲んで、指先で彼の髪の毛を絡め取った。
 ――言える筈がない。

「……なんでも、ありません」
「――そう、」

 彼の顔が、真上に見える。押し倒された体は重い。鉛でも、転がしているかのようだ。腕がだらりとソファの下に零れ、爪が床につく。吐息まで、また、薔薇の匂い。
 段々と、夜を過ごす度、私の中で"彼"が濃くなるのだ。薄かった印刷物を、何度も何度も刷るような感覚。

 華奢なその腕に巻かれる度、くらくらとして足元を失いそうに。

「猫は、一体どっちなんだろう」

 盛り付いた猫は、気高い嬌声を上げて啜り泣く。
 今夜も一匹の猫は、一人の男に抱かれたままに。

 そしてまた、沈んでいく。


Thankr for りお様!
20080308

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