だから、笑うなというのに。
*頬袋に戒めのキス*
鼻腔をくすぐる、アールグレイの湿度。優しいベルガモットの高貴な柑橘の香りは、熱くなったカップから表面を撫でるように湯気と共に、室温に慣らされては色を失っていく。
レースカーテンを広げた、天井にまで届く高い窓からは、冬特有の冷たい光が零れている。いつもは窓際で木々に留まって歌を贈っている小鳥達も、今日は珍しく外出しているらしかった。
ソファが軋むのと、彼が咽(ムセ)返るのと、どちらが早かっただろう。とにかく彼は苦しそうに、こふ、と一つ大きめに咳をした。
「本当はそれ、アイス用なんですヨ」
「……じゃあ何故ホットにしたんだ」
ウン。良いですね。その恨めしそうな顔。
音を立てないように、一口啜ると、また器官を流れる温度を感じる。当のお相手が、その様子を苦い表情で見ているから、見物だ。実に面白い。
「紅茶というものはネ、高温の方が香りが染みやすいんですよ。中でも、アイス用に作られた茶は、低温でも香りの判別が出来るように、香り付けを少々きつめにしてある。特に、このベルガモットは温度に敏感なんデス。不慣れな人には、少し飲みにくい一杯になってしまうかも知れない」
「物知りなものだな」
一瞬、関心したような、素っ頓狂な声を上げたレイムだったが、よほど悔しかったのか、小さく呟きながら眼鏡を拭き始めた。きう、と擦る音が聞こえる。
意地を張ったその姿が、妙に愛しいので、思わず顔が綻んでしまう。だが、彼を拗ねさせる為にここに呼んだ訳ではないので、きちんと説明を加えなくてはならないだろう。
「私は飲み慣れていますから、然程苦しくは感じられませんが、レイムさんでは仕方のないことでしょう。なら、ケーキと一緒に口に含んでみて下さい。単体で飲み食いするから咽るんですヨ」
東の国でも、抹茶というものと菓子を一緒に含むのが慣わしとなっているようですし。
そう言うと、彼の瞳に好奇心という光が煌いたように見えた。
ほら、また眼鏡を押し上げて。分かりやすい人だ。
今日のケーキはチーズケーキ。紅茶に合わせて、オレンジの皮をトッピングに添えてあるのが魅力だ。
細い指を添えたフォークが、その一切れを唇に運び入れる。その後に流し込まれる温めのアールグレイ。素直な彼の頬の筋肉は、口の端をしっかりと持ち上げて、「おいしい」を誇示していた。同時に、細まる目元。
「いけるでショ」
問いかけである筈なのに、肯定の答えしか求めていない台詞に、「ああ、」の少年のような笑顔が綻びを見せた。
戸惑い混じりに、無意識に撫でたカップの取っ手に、自身の血流が速くなっていることに気付いた。微かに、心地いい動悸がする。
照明が照らすのは、真冬の応接間、薄い血色を指した眼鏡レンズ一枚。
本革のソファは、体重を掛けた拍子に鈍い悲鳴。
舌の上で転んだ透明の茶色はどぷ、と音を立てて器官を流れていく。
後に残るのは、朗らかな笑顔に甘い陶酔感。
「こんなに、合うものなのか」
不恰好な、手袋なんて脱ぎ捨ててしまえば良いのに。頑なに意志を貫こうとする、そんな健気さも、また良いところだとは思うのだが。
ああ、また、笑った。
「……だから、笑うなというのに」
「ん?」
「いえ、別に」
思わず言葉にした不満など、掻き捨ててしまおう。これは、馬鹿のように惹かれている、自分への戒めだ。
そんな考えを見透かしたように、彼はぽとん、と言葉を漏らした。
「次は、どんなお茶を用意してくれるんだろうな」
眼球の黒が点になったのは、ばれてしまっただろうか。どちらにせよ、彼は長い睫毛を一層目立たせるようにまた、目を細めた。
その瞳の奥にあったのは、少しばかり野生的で、挑戦的な、自信に満ちた幻のような力。ある種の引力。
「それは、お楽しみに」
そちらがその気なら、こちらだって。
(頬袋に戒めのキス。どちらが先に奪取できるでショ)
(賭けてみるか? パンドラの名にかけて)
Thanks for 涼揶様!
20080116