忘れて欲しい。――忘れて、欲しくもないのに。

*34℃*


 ぐん、と寒さが増したような気がする。そんな秋と冬の境。どこからか入り込む冷気は肌の表面を優しく撫で、縮みそうな体が軋むように硬くなる。さして長くもない髪が頬を叩く。その一つひとつが死体のように凍り付いている。それでも尚、こめかみを伝い落ちる冷や汗。薄っぺらい生地の服は、胸元で握り締めた手によって小刻みに皺を作った。

「……ッ、」

 首を伸ばす先に真黒な天井(ソラ)。漏れる息だけは白。肌は、白というよりも蒼白。では、心の中は――

「違うなァ」

 ――私に心など、

 考えることなど、放棄してしまおう。今痛むのは、胸。比喩ではない、それ。無理矢理に力を込める拳ですら、その関節の一つひとつが狂ってしまいそうだ。神経を引き剥がそうとするような感じ。肘も、指も、膝も。朽ち果てる前のブリキの玩具のよう。
 声すら、出ない。

(一言で良いから、言えば良かったのかも知れない)

 何を、とはあえて自問するまい。

 黒の中に、更に深い白濁が零される。座り込んだ下の、砂利が肉に食い込むようにうるさく音を立てるのが、腹立たしかった。傲慢に騒ぎ立てる雑草。生を誇示する緑の匂いが鼻腔を満たし、その表面は零れた水滴でうすぼんやりと光を放つ。星のない世界。世界すら、存在しないのかも知れない。今。ここに在る。それだけは変えられない、確かなものであった。
 焦点が定まらず、なんとか認識出来るものは色と、匂いのみ。音はもう、ない。

 がく。と、体を支えていた何かが切れて、背中に衝撃が走る。――後ろに、倒れこんだのか。
 気付いてみると、もう。息を荒げているのかも分からない。寂しいことに、走ることも出来ない痛み。

(意外と、保った。カナ)

 唇を動かす筋肉すら弛緩しきっているらしい。微笑むことも出来ないのか。感じるのは、忘れかけていた重力という名の重さ。
 霞み、見えない瞳をどうして開いているのか。面倒なことに、閉じることすら出来ないのだ。辛うじて分かるのは、まだ。息があるということ。

「いくのか」

 目の前が暗くなった。違う、影が差した。
 どうにか聞き取ったその声は――。動け。尽き切る前に、少しで良い。動け、

「レ、」

 イヴン(鴉)。は、空気だけになって漏れ。消えていく。
 無理矢理に抉じ開けた瞼。漆黒に映える金色が見えた気がした。手袋越しに感じる、その体温。しゃがみこんだような音が聞こえ、もう一度。上と下の睫毛を重ねさせる指。
 駄目ですヨ。見納めも、出来ていないのに。

 格好悪く、頬を包む右手袋を濡らしてしまう。頬を流れる、などという感触すら残ってはいないのだけれど。

「伝言、あれば伝えておいてやる」

 お願 し す。

 ――意識は在るのに、朦朧(モウロウ)として、届かない。それでも尚、素直になることは出来なくて。
 神経という神経をこの舌に注ぎこんで言葉を、『私』を、

「忘れ て、 くだ   さ」

 最期まで嘘ばかり。だから、私は信用されない。帽子の奥に本音を隠して、逃げて、逃げて、

 い、を言う前に。意識は、宙に溶け込んで、拡散した。


「オレが、おまえを忘れたら。楽になれるとでも思っているのか」

 白の境界を飛び越えた肌に、跡の残る涙を見る。
 青紫に変色しつつあるそれが憎まれ口を叩くことはもう、ない。
 絶えた男の隣に、鈍い黒の帽子が一つ。真白にあつらえた無機物の蔦と百合の花は、装飾に優美な印象を与える。
 手に取った。中は、生暖かい。無論、未練がましく持ち帰る。などということはしない。ただ両手を組ませ、その胸元に乗せおくだけ。

 音もなく、強風が髪を凪がせる。横切るように後ろに走ったそれは、共に帽子を奪っていった。遠く、黒に滲む一点となって。振り返り様に、あいつの匂いがした。
 甘ったるくて、嫌になる。苺飴の、

「ああ、お前は嫌な奴だな。本当に」

 忘れて、欲しくないんだろう? どうして、拗ねた子供のように駄々ばかり。
 忘れないから、安心しろ。とは、口が裂けても言えないオレも。人のことは言えないんだろうが。

 手袋を取って、首筋に触れる。ぬるま湯よりも、冷えが回った程度。さながら34℃。
 せめてもの手向けか。唇を綻ばせて、「じゃあな」と頭を撫でた。その頭すら、つめたかった。


 ――外套を着ていても、黒に完全に塗り潰されることはない。抗うように火を点けたのは吸い慣れたシガレット。一つだけの真赤な先が、吸う度に静かに音を立ててまた輝きを増した。
 天空、いと高きところに。見えずとも生きる星々。雲は、覆っていることも分からないように隙間もあけずに敷き詰められている。空=自分の心という方程式を無意識に考えてしまい、喉を鳴らして嗤ってしまった。その場合、敷き詰められているのはおまえ。なんだろうな。

 鈴虫のリリ、が透き通って空間を満たす。遠く、見えるのは明日を届ける曙の光。球体のどこかには、もう朝が来ている。
 気温が、膨(ボウ)。と高くなっていく。それでも、肌寒さはまだ残る。
 おまえの代わりの瞳。それがオレだと、いつか聞いた気がする。なら、今もそれでいいだろ。

「見えるか、」

 視界の奥に、灯される黒を。紫、青、橙の順に重ねられた世界を。おまえの目には見えるだろうか。
 髪を掻き揚げて、はっきりと見据える。

 世界は在る。存在する。その中に、オレが居る。お前が、居た。

 被っていた帽子を取る。同時に風が吹く。
 手を、離した。

 主人を忘れたシルクハットのいく末など、オレは知らない。

 これがおまえとオレの、証。
20071104

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