爪の表面がつるりとして、そこだけがずっと、若くあるように見えた。きれいに整えられたその周りは、四十年前に比べると、大分皺くちゃになってしまっている。白い肌に、ぷっくりと膨らんだ緑色の血管が、ふと、愛おしく感じる。

「ねえ、私たち、随分と年を摂ったものね」

 屋敷の二階は、とても眺めがいい。
 遠く、海は穏やかに波打つし、その手前には鮮やかすぎて眩しいくらいの樹林が広がっている。目の前には、どこからか軽快なラッパの音が溢れる、背の低い町の建物たち。
 ベランダから、遠く沈みかけの太陽を見つめるルーファスは、両手をフェンスに預け、片足の力を抜いている。重ね塗った透明水彩のような、金赤に燃える光を反射させる彼の髪は、いつもよりも炎に近い色をしているように見えた。春のぬるい風に、むうとした潮の匂いがする。
 さら、さらら。あのころのままの、絹のような髪の毛。

「まるで、海に融けて行くみたいね」

 橙に縁取られた、楕円の灯が。

「まるで、夜に侵食されていくようじゃな」

 横に滲みながら、地平線でぐにゃりと折れ曲がり、波とともに揺らめいている。

 町が、一つの大きな影になっていく。うすぼんやりとしていたそれは、段々と形を明確なものへと変えていき、最後には、夜と同化した。
 向こうの空は、まだ、どこか明るい。

「もう少し」

 シェリル、と車椅子を引こうとする彼に待ったをかける。表情のない声が、少しだけ色を帯びて、体を冷やすぞ、と潜んだ音で舞い降りる。

「いいの、まだ、空を見ていたい」

 真黒な屋根に、ぽつぽつと浮かびだす星々に、目の皺が深くなる。つうと流れてくる冷たい風に、乾燥しがちな手の腹を重ね、指先を温める。
 ばさりと背中にかけられた、大きなコート。寒くない? と椅子の背から尋ねると、我は大丈夫じゃ、と耳に優しい声がした。

 きゅうとつまんだコートの襟もと。変わらない、匂い。

 昔もこうして星を見上げたわね、と優しい気分で口にしようと思ったら、情けない、豪快なくしゃみが聞こえてきたから。
 ばかね、ととびきり幸せな顔をして笑う。

「中に入りましょ」

 ちらりと見えた、その赤ら顔に、可愛さを感じて、また唇が綻んでしまったのだけれど。

20100403


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