(若いころの設定)
私は、助けて、なんて言わなかったわ。
差しだされた手をぱしりと叩いて、き、と睨みあげたのは、バルマ家の嫡子であるルーファス。私を見下ろす瞳に光は薄く、ただうすらと眉の間を狭めて苦しそうな顔をした。するりと細い目が、更に細くなる。怪我は、ないか。その唇を濡らしたのは、そんな。彼には似つかわしくない言葉。
「あんな敵襲でやられるようじゃ、レインズワースの長なんて務められないのだから、死んだ方が良かったわよ」
スカートのレースに撥ねた泥を落としながら立ちあがる。強く打ちつけた尻が痛む。視線をずらすと、そこには名前も分からぬ、息絶えた男らが三人横たわっていた。
人気のない郊外の森。どこからかやってきた蟻たちが、大きな食料に喜び、女王のもとへ運ぶ様子が見てとれる。それは逆転した食物連鎖。隣に投げ出されたサバイバルナイフの獲物が私だったことを思い出して、苛立ちに情けなく頭を掻いた。
「私は使える存在なの」
「は、」
「あなたにとって、人は有益が無益か、それだけなんでしょう」
「シェ、」
「なんで助けたの」
腹が立つ。ああ、胃がむかつくのだ。
腸の中をいがのある球が転がり、粘膜を刺激する、そんな不快感。自分自身で立っていたはずの足場が、肩車の上であったと気づいたような。自分自身への不甲斐無さが、なんと、嘆かわしいことか。それゆえの、ひねくれた子供のような言葉。
言いながら、その心理には気づいていた。それなのに、それは止められなかった。
彼がぐ、と息を詰めた。
「……シェリル、」
帰ろう。
赤い髪がふわりと泳いで、焦げた緑を掻きわける。
帰路に使用した馬車は散々にめちゃくちゃにされているし、付きの従者も、馬もみなやられた。徒歩で敷地まで帰るしかない。
いつもよりも早足の背中を追って、口を噤んだままについていく。ああ、苛立っている、彼もまた。
それは、きっと、無益な私を助けたから。
土の匂いがする額を、袖で拭いながら、渦巻く感情に身を任せて、ぼんやりと駆け足。
ああ、あのまま、拍動を止めてしまえばよかった。そうしたら、彼に、あんな醜態を晒したあとで、こんな気持ちにならずに済んだのに。
光が差さない緑は、やけに暗い。その中で、彼が急に足を止めた。
「助けて、とは言われなかった」
だが、助けないでくれ、とも言われなかった。
「なによ、それ」
「自分で考えるのだな」
「……なによ、それ……」
それじゃあ、あなたの益、って論から、離れてしまうじゃないの。
分からないなら、それでもいい、シェリル。
……。
どこか、怒りを含んだ声色に、返事をする気力を削がれた。
けれど、ねえ。それじゃあ、あなたの「益論」から離れてしまうじゃないの。じゃあ、なんで私を助けたの、ねえ、なんで。足し算の答えを求めるような、程度の低い問いのような気がして、口にはしない。しかし、本当に、どうして。
(じゃあ、私は、ルー君の、何なの)
血のついたスカートの裾が、黒ずんでいる。
彼の言動が理解できないでいる脳が、混乱と根の見えない苦しみに苛まれている。
酷く生き物の匂いが肺を満たしていて、気持ちが悪い。
ぎゅう、と彼が手を握った。迷わないように、と。
そんな、困るわ。
なぜこんなにも悔しくてまどろっこしくて、わからない気持ちがぐるぐると目隠しをしているのに、それにも増して、心臓の動きが段々と早くなってしまうだなんて。
少女の葛藤を繰り返しながら、歩いた帰り途。
何年かして、それは、少しばかりひねくれた恋心だったことを、初めて知った。
20100401