(11巻までのお話を読み終えた方のみ閲覧をどうぞ)

 視界がぼやけている。まるで、二重・三重にも白いヴェールを顔に被せたような。
 布団に、彼女の匂い。使えなくなった視神経の代わりなのだろうか、臭覚がぴいんと耳を張っており、その華のような、幼い石鹸のような芳しい匂いがする。

(そうか、丸三日。あの笑顔を、)

 丸三日。あの笑顔を見て、いない、のか。

 チイ、と窓の外で風の音と共に鳥の羽ばたき。
 寝返りを打って、枕の感触に頭を預けてみる。柔らかく、弾力のあるそれは、頼りなく力を抜く私の脳を引き離すように、案外力強い。
 もぞり。脚を組み換えても、ああ、一人分の体温。

(泣いて、いたな)

 遠い日々は、刻、一刻と、永遠の彼方へ向かっている。
 あのころ。シェリー様のもとでの、あのころ。
 小さなシャロンが躓いたときも、一人で迷子になってべそをかいていたときも、私が仕事から帰るのが遅くなった秋の夜も。少しずつ大きくなり、契約を結んで、体の成長を止めてからも、あの子は少女から女性へと変わり、それでもぼろぼろと泣く癖はなかなか抜けなくて、我慢がはちきれて、ときどき私の中で蹲り、整った顔をぐちゃぐちゃに潰していたことは、今でも鮮明で。今でも変わらない、小さな幸せの毎日で。
 それにはいつか、ピリオドは打たれる。分かっていた。なのに、この心臓を満たしているのは、虚無でも、悲しみでもなくて、強いショックでもなくて、なにかの、空白。

 あの泣き顔を見たかった。
 その場にいたのが、彼でよかった。彼意外の人間には、彼女を胸に抱くことなんて、絶対に許せないから。
 けれど、やはり、その小さな体を強く抱きしめるのは、私であれば良かった。
 泣かせてしまうこと自体が、本当はいけない、とそれくらいは分かっているのだが。

 白い。
 指でつい、と窓のガラスを撫で、軽く、溜息。
 白い。空も、白い。

「見たいなア」

 鮮やかな緑も、聡明な海の青も、雨上がりの広い虹も、黄昏の滲む世界も。
 隣が空いていたなら、今の瞳に映る白と同じだったのだ。

 今は、どんなに美しい絵も、優美なパイプオルガンも、気高い香水もいらない。
 ただ、彼女を感じることができるなら。

 本当は。それだけで、私は救われるのに。

(ああ、私は本当に、弱虫だ)

 事実を知ったとき。怖いのは、彼女が。

20100330


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