短編 | ナノ

行きたくない

薄々勘付いてはいたが必死に気にしないようにし続けていたがもう限界だ。
右の奥歯が、痛い。


冷たいものや熱いものを飲むたびに歯が染みて痛い。自分でも虫歯だろうな……とは思っていたものの、どうしても歯医者には行きたくなかった。
あの歯科の独特な匂いや、口の中に器具を入れられ、キュイーンという音と共に歯を削られていく感覚。幼い頃の歯科の記憶が今でも鮮明に覚えており、正直怖くて行きたくない。
もうそろそろ30近い男が何を怖がっているんだと自分でも思うが、いくつになっても怖いもんは怖い。
だからこそきちんと歯磨きはしていたが、最近は忙しさにかまけてやらない日が増え、その上女性社員からのお裾分けのお菓子を食べまくってしまった。
そりゃ虫歯にもなるよなと痛む右頬に手を当て、ため息をついた。

「どうか治療が痛くありませんように……」









仕事帰りに寄りやすく、時間もちょうどよく、なおかつ口コミで治療が痛くないところを必死に探した。
全部揃った場所はなかったものの、最寄駅から5分程の場所に最近できたばかりの歯科がとにかく評価が良かった。
『優しい』『内装が綺麗』『対応が良い』『何度も通いたくなる』なんてどの口コミも褒めたコメントが多い。
若干ここまで褒められていることに怪しさもあるが、歯痛につべこべ言えず、腹をくくり予約の電話をすると、ちょうど今日の夜予約が空いていると言われた。
歯痛があるためありがたいが、まさか今日のうちに行けるとは思っていなかったため、仕事が終わり歯科の目の前に着いた今、入る覚悟が決まらない。

予約の時間が刻一刻と迫ってくるのと同時に、歯痛も酷くなる。ここでうだうだしてても意味がないことはわかっているが、なかなか体が言うことを聞いてくれない。
数分葛藤し、ようやく『どうにでもなれ!』と勢いで扉を開けると、案の定あの独特な匂いが香り、早くも後悔する。

「こんばんは。ご予約のお客様ですか?」
「ああ……はい、19時から予約していた早川(はやかわ)です」
受付の綺麗なお姉さんが入ってきた俺に気付き、ニッコリと微笑んでくれた。その優しそうな微笑みに少しだけ元気を取り戻すが、初診の紙を書き終え待ってるうちに、これから治療が始まることを実感してしまい、恐怖が襲ってきた。

「早川さーん。こちらへどうぞ」
どのぐらい待っていたがわからないがとうとう呼ばれてしまい、重い腰を上げて言われたところへ向かう。行きたくない……。行きたくないけれど行かなければ……。
通された場所には治療用の椅子があり、そこへ座るよう言われた。
無駄に座り心地が良い椅子に座ると、お姉さんがエプロンを付けてくれた。虫歯の箇所を確認してもらい、薬の入った水で口をゆすぐよう言われ、それに従った。

「今、先生をお呼びするので少しお待ちください」
「はい……」
怖い。怖い。あー、嫌だ。まだ始まってもいないのに、もう終わってほしい。
なんで虫歯になっちゃったんだろうな。本当少し前までの俺、何やってんだよ。
治療の恐怖から自分を責め続けていると、
「こんばんはー、早川さん。虫歯ですか、一度見るために椅子倒しますね」
と、先生だろう若そうな男の声が後ろから聞こえたと同時に椅子が後ろに倒れ始めた。心の準備はまだ出来ていないが、嫌でもこれから治療が始まってしまう。恐怖が増し、ギュッと目を閉じ、椅子に身を任せた。

「早川さん大丈夫ですか?そんなにギュッと目を瞑って……。もしかして歯医者は怖いですか?」
「……あまり得意ではありません」
「そうですか。なら、なるべく怖がらせないよう気をつけますね。まずは大きく口開けてください」
目を瞑ったまま先生の指示に従い、口を開ける。口にライトが当たっているのを感じながら、懸命に他のことへと意識を飛ばした。







なんてことはない。
スムーズに治療は進み、キュイーンという音は若干怖かったが思っていたよりも痛みはなかった。
幼い頃の歯科での記憶が強すぎて、今まで怖がっていたことが嘘のように、いつのまにか恐怖はどこかへ行き、全て先生の言う通りにしていたら思いの外大丈夫だった。

「早川さん、お疲れさまでした。終わりましたよ」
椅子は元の状態に戻され、ギュッと瞑り続けていた目をゆっくりと開けると、顎にマスクを下ろしたイケメンが目の前にいた。

「怖いのに頑張りましたね」
その言葉に突然キュンッと胸が高鳴った。『怖いのに頑張った』なんて子どもに言うような言い方を平気で言い、しかも優しい笑顔を浮かべている。その笑顔はさっきの受付の綺麗なお姉さんよりもトキメイた。先生カッコいい。
こんなカッコいい人に自分の口の中を見られていたことに、今更恥ずかしくなる。
ああ……もっとちゃんと歯磨いてくればよかった。

先生は対面に座り、今までの俺の歯の状態やどんな治療をしたか、今後の治療回数など説明してくれるがそれどころじゃない。
先生を見てからずっともうドキドキが止まらない。
いい歳した男が男に……と自分でも思うが、そんな自分とは正反対に感情が込み上げくる。


「次は4日後ですね。歯磨きは怠らずにお願いしますね」
優しい笑顔を浮かべる先生に、俺は無言で頷いた。
そして歯科から家までの帰路、歯科の口コミに、もちろん高評価をつけた。








補足

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